2018年5月25日金曜日

セクハラという悪夢を封印する「システム」としての「恋愛」と「結婚」

 なんか知らんアメフトの人気が出ているような昨今ではあるが(白々しいなあ)、アメフトといえば数年前に話題になった動画が思い出される。

 “How to talk to your kids about Michael Sam”という動画なんだが、マイケル・サムというアメフトのNFL選手がゲイだとカムアウトして大騒ぎになった、その馬鹿騒ぎへの皮肉である。
 動画では父と子が会話しているんだが、子供が「マイケル・サムって、どんなとんでもないことをしたの?例えば婚約者が意識不明になるまでぶん殴ったとか?」などと訊いて、父親が「いや、それをした選手はマイケル・サムじゃなくてレイ・ライズだよ」といった風にいちいちそのとんでもないことをした選手について答えていく。
 その会話から明らかになるのは、、NFL選手ってのはレイプやらDVやら喧嘩沙汰やらドラッグやら酒酔い運転やら、やらかし野郎が大勢いる危なっかしい世界だということだ。
 色々と明らかになった後、息子は最後に訊ねる。「で、結局マイケル・サムの何が悪いっての?」

 ゲイの権利については日本よりずっと先進国であるアメリカですら、その国技たるアメリカン・フットボールの世界ではこの有様、といったところだ。
 こうしたことは「差別」と簡単に切り捨てて良いことではないように思う。
 その「差別」を裏から支えるのは「恐怖」だからだ。
 じゃあそれにホモ・フォビア、ゲイ・フォビアなどと名付けてそれでおしまい、ということでもなくて、その恐怖(フォビア)はどこから来るのか、についてちょっと考えておいた方がいいんじゃなかろうか。
 アメリカのマチズモを体現する男の中の男たちが、なぜゲイを「恐怖」してしまうのか。
 それは彼らが、「欲望される」ということについて、対処できないからだ。
 彼らはとにかく、何かを「欲望する」ことにかけては人一倍のそのまたさらに倍、そのまた倍の倍の倍くらいの欲望を持っているわけだが、自分らが「欲望される」ことなどは想像を絶するほどの「悪夢」なわけなのだ。

「欲望される」ことは悪夢である。
 ブタは食べることが大好きだが、自分が食べられることなど考えもしない。ブタにとって誰かに食べられるなどということは、悪夢というより他にない。
 そうした「悪夢」は、人類において普段社会的な「システム」によって、壺の中の魔神のように封印されている。
 その「システム」のうちの性欲という分野において、メインをなすのが「恋愛」と「結婚」である。
 しかしこの「システム」は、そこら中に機能障害のある矛盾だらけのポンコツで、「システム」のくせにさっぱりシステマチックではない。
おまけにそこに注がれる「欲望」という名の燃料ときたら、むき出しのニトロよりも危なっかしいときている。
 だが、見てくれだけは、ピッカピカに磨き立てられている。
 その美しい見てくれに隠れて、「イヤよイヤよも好きのうち」だとか「一発やっちまえばこっちのもの」だとか、「釣った魚に餌はやらない」とか、「女房と畳は新しい方が良い」とか、そうした機能不全がまるで正当なことのようになされてきた。
 見てくれだけ美しい「システム」によって、「欲望される」という悪夢は封印され、まるでビューティフル・ドリームのような物語として喧伝された。
 この「システム」が衰え、流石にその見てくれに騙されない人たちが増えてきたことによって、封印を解かれ正体を暴かれた壺の中の魔神が「セクハラ」というやつである。

 セクハラを肯定したい人たちの言い分は、だいたいこうだ。
「世の中は欲望で動いているのに、それを否定してどうしようってんだ」
 はいはいそうですか。でもね、人類の歴史ってのは、欲望を何とかするための歴史なんでね。
 そりゃ失敗の連続ではあるけれど、成功の目処が立たないからってそれをやめたら、もはや人類は進歩を諦めるってことになる。
 だいたい「自然法」ってもんがあって、それは「自分がイヤだと思うことは人にやっちゃいけない」という幼稚園あたりで先生から教わることなんだけど、どうしたらそれを体裁よく破れるかってことにばっかり心を砕いてる「ずるい嘘つき」どもをどうにかしなきゃなんないのだ。ほっとくと国が滅ぶからね。マジで。

 そんなわけで、セクハラにしろLGBTにしろ、それらからもたらされる「問題」は、制度疲労でぼろぼろになってる「恋愛」や「結婚」という「システム」をもう一度改めて修理する必要がある、ということでもある。
 boy-meets-girl なんかじゃ間に合わないほど、世界は複雑になってきてるんだから。
恋愛の誕生―12世紀フランス文学散歩 (学術選書)

2018年5月22日火曜日

No to mention, unsportsmanlike, HAHAHAHA!! とレプリカントは笑った

7'25"辺りのセリフ

    タイトルは映画『ブレードランナー』のセリフから。日本語字幕は忘れてしまったが、意味としては「まるっきりフェアじゃないな、ハハハハ!」というところか。ベタに直訳すると「言うまでもなく、スポーツマンらしくない。ハハハハ!」といった感じ。
 そう、「スポーツ」は公正であることの代名詞なのだ。

 スポーツにおける「公正」とはなんだろう。
 やはりお互いにルールを守り、全力を尽くして戦い、勝敗について不服を口にせず、敗者は勝者を称え、勝者は敗者をねぎらう、と。
 競技に優勝劣敗はつきものであり、スポーツはそれを明らかにすることが究極の目標である。その目標がない運動は、ただの遊戯とされる。
 しかし、その「公正」がずーっと昔からそのままの「公正」だったかというと、ちょっと違ってくる。

2018年5月8日火曜日

「それの何が悪いの?」という人には「悪いのはお前の頭だ」と応えたくはあるのだけれど

    人はいつ、自らの「悪」を認識するのだろうか。
 やはりおいたをした時、例えばチャンバラ遊びが過ぎて棚から七宝焼の花瓶を落とし、母親からこれ以上ない不快な金切り声にのせてあらん限りの罵倒を投げつけられた時だろうか。
 その時人は、自分が「悪い」とは思っていなくても、「悪」とは自らの想いを超えた所に基準があるのだと知る。
 しかし、その叱り方があまりにも感情的で論理的で理不尽であった時、人は思考を停止させて、「他人」に見つからなければ何をやっても「悪」とはならない、というニヒリズムを身につける。
 そうした「ガキ」がそのまま大人になって何かやらかすと、平気でこう言い放つのである。
「それの何が悪いの?」

2018年5月6日日曜日

やってきたのは嵐の言葉♪俺たちのウソを見破るため♪【快楽はいつウソになるのか?編】

『ライク・サムワン・イン・ラブ』予告編

 実は私は、結構な泣き虫である。
 しかし、「男は生涯に三度しか泣かないものだ」と祖母(先年百歳で亡くなった)から躾けられたため、涙を我慢するのだけは上手になった。ちなみに「三度」というのは、「右目から涙を流すのはお父さんが死んだ時、左目はお母さんが死んだ時、両目から流すのはキン●マなくした時」とのことである。