2018年3月8日木曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…はとうとう亀の存在に追いつけなかった編】

 さて続き。日本語のように単語と単語を適当にくっつけない、厳格なドイツ語によって、ハイデガーはどのように「存在」を語ろうとしたのだろうか。




 上掲はネットでたまたま拾った「格言」である。

 男性たることは生まれついての問題である。
 Männlich zu sein ist eine Frage der Geburt.
 男子たることは時間の問題である。
 Ein Mann zu sein ist eine Frage der Zeit.
 紳士たることは意志の問題である。
 Ein Gentleman zu sein ist eine Frage der Entscheldung.

 seinとあるが、それは哲学的な「存在」ではなく、「としてある」程度の強調する意味なわけだが、ハイデガーの言うSeinにも一応それは含まれている。
 そしてそれは、「問題 Frageである」とされる。
「それは時間の問題だ Das ist nur noch eine Frage der Zeit」というのは日本語にもなってるが、つまりはそれについて「問うこと Frage」がそのまま「答え」になる、という態度である。
 言ってみれば、「ある sein」てのは、そのまま「問い Frage」なのだ。ただ常識として。
 しかしそこで、ハイデガーは常識的な存在への「問い」を捨てて、新たな問いを立てることを宣言した。そういう答えのない「問い」を常識とすることを否定し、「問い」をさらに繰り返し、突き詰めることで、新たな「答え」としての「存在への問い Seinsfrage」得ようとする。
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存在と時間(全4冊セット) (岩波文庫)
私たちはそのつどすでに或る存在了解のなかで生き、しかも同時に、存在の意味は暗がりのうちに蔽われている。このことが証明するのは、「存在」の意味への問いを反復することの、原則的な必然性なのである。
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先入見を考量することで、たほう同時にあきらかになったのは、存在への問いについては答えがかけているばかりか、問いそれ自身があいまいで方向を失っていることである。存在の問いを反復することが意味するのは、したがって、まず第一に問題設定を十分に仕上げるということなのだ。
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 日本語のようないいかげんな言語の使い手ではないハイデガーは、このような手段で「存在」について語るしかなかった。
「問い」を繰り返すことで、彼方から「答え(真理)」が開示されるのを待ち望むのである。これは、判断をカッコに入れて留保するフッサールのエポケーに似ている。ハイデガーがフッサールから学び取ったのは、こうした手法なのだろう。
 しかし、メルロ=ポンティがエポケーには限りがないと言ったように、ハイデガーの「問い」も限りがない。後期ハイデガーの主著とされる『哲学への寄与』でもこのように述べている。
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哲学への寄与
   真理への問いといえば、極めて要求が多いように響く。そして、問うているにもかかわらず、真なるものが何であるかを知っているような外観を呼び起こす。
 そしてそれでもやはり、問うということはここでは、問いの余地の無いものを、あたかもそれが戦い取られたものであるかのように目の前に引っ張り出すための、単なる予行的活動[前奏]ではない。元初にして終わりである。
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 真理とは存在の真理である。そしてそれは、見たことも聞いたこともないような、とんでもない衝撃的なシロモノでは「ない」ということだ。
 日本語で書けば「存在とは『の』である」ですむが、ドイツ語ではそうはいかないので、果てしなく問いを繰り返すことになる。
 まるで亀に追いつけないアキレスのように。

「アキレスと亀」は、ゼノンのパラドックスの中でも一番有名なものだ。この「俊足第一のアキレスは、のろまな亀に追いつけない」という、運動を認識する上でのパラドックスに対して、樽に住んでいたディオゲネスは何も言わずに立ちあがってスタスタ歩いて見せたという。
 ディオゲネスはただの「常識」に立ち返って見せたわけだが、ハイデガーはこれまでの常識に背を向けた上で、あくまで亀という「存在」をつかもうとした。
 ハイデガーが思い浮かべる「常識」における「存在」は、「常識」としての「時間」によってなるもので、その「常識」に背を向けたなら、どんなに「問い」を繰り返そうと、常識から外れた「存在」に追いつけなくなる。
 なのでハイデガーは通常の時間、理性の背景としてある時間ではなく、理性や科学によって否定されがちな前近代的な「時」を使うことで、「存在」に追いつこうとした。
 というか、そのようにして「存在」を語ることこそが、真正であると考えた。
 前近代的な「時」は、この世界との一体感を根拠としており、それは民族やそれによって成る国家への帰属を求める呼び声でもあった。
 そうした目論見は結局上手くいかないものだったわけだが、それを正しいものであるかのように体現する集団が現れた。
 それがナチスである。
 ハイデガーは生涯、ナチスに加担したことについて反省や後悔を口にしなかったが、それは自分の哲学の破綻に繋がると考えたからなのだ。

 これにてハイデガーについてのエントリーは小休止。
 またの機会といたします。



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