2017年10月6日金曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の異常な愛情またはハイデガーは如何にして存在を乗り越えてナチスに身を投じるようになったか編】


 


   先日、アテネ・フランセ文化センターで、ハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの『ヒトラー、あるいはドイツ映画Hitler: ein film aus Deutschland』を観た。全四部で七時間半。全通しを一日で観たので疲れた。途中で寝なかった自分を褒めてやりたい。
 上映された一九七七年当時、この映画はかなり物議を醸した、というか、散々に批判された。何が批判されたかというと、ヒトラーとナチスについて「徹底的に批判的でない」ということが批判されたのだ。
 積極的に肯定しているわけではないが、ヒトラーが「ぴちぴちしらかば水」をお肌に塗っていたり、替えのパンツが気に入らないと床に叩きつけて怒鳴ったり、側近と二人で雪のベルリンの夜道を歩いたり、ヒトラーを「完全無欠の悪人」と必ずしもしていないところがダメだったようだ。
 まあ自分も、ヒムラー(SSの隊長)が仏教に傾倒していて、バガヴァッド・ギーターを読むよう他人に薦めてた、なんてのにはげげっと驚かされたけどね。バガヴァッド・ギーターって、ガンジーも愛読してたんだけどな。
 ヒトラーの何が「悪」かというと、戦争とかユダヤ人の虐殺とか、まずは外から見てはっきりとわかる「悪」がまずあるわけだが、しかしそれ以外にも、ヨーロッパの内側、特にドイツにおいて、その「文化」そのものを汚した、ということもあるのだ。
 とにかくヒトラーがその水虫だらけの手でベタベタ触った「文化」は、たちまちその全てに水虫が伝染ってかゆかゆになってしまった。そのことが長いことドイツ人(そしてヨーロッパの文化人)を苦しめ続けたのだ。
 ワーグナーの音楽なんかが良い例だが、それ以上に当時の軍歌なんかはドイツで今でも放送禁止だったりする。そして戦後のものですら、このジーバーベルクの映画『ヒトラー、あるいはドイツ映画』も上映禁止となっている。(Youtubeで流れちゃってるけど)
 で、ナチス万歳だったハイデガーも御他聞に洩れず、戦後しばらくの間は冷や飯を食わされていた。その復活については、フランスでの再評価がまずあり、さらにハイデガーにインスパイアされて『存在と無』を書いたサルトルにも責任があると思う。そういえばサルトルって、若い頃はセリーヌを暗唱するくらい愛読してたんだよね。
 まあ、サルトルのことはおいといて、ハイデガーはヒトラーのカビ臭い手のひらにどのような魅力を感じていたのだろうか。
 おそらくは最後となったヤスパースとの対話において、ハイデガーは以下のようにヒトラーを讃美した。
………………
「教養などまったくどうでもいいこと……彼の素晴らしい手を見てください」
………………
 ドイツ語の「手Hand」は、多くの言語においてそうであるように、多くの意味を持っている。手段や担当者、さらには所有者、そして支配者である。
 ハイデガーはヒトラーの手による「支配」に歓喜すら覚えていた。


 ハイデガーの『存在と時間』は、「存在」を新たに問い直すことで「時間」へと至ることをまず目指している。つまり、

存在→時間

 である。これがまず「上巻」として書かれ、続く「下巻」は

時間→存在

 となるはずだった。
 この場合の「時間」は時計などで計量される類のものではなく、世界を突き動かす「力」の大元のことである。
 その「力」があるからこそ、人間には世界に時間が流れているように認識できるわけである。
 それは「存在」を通して見る「時間」そして「時間性Zeitlichkeit」、その「存在」を規定する「現存在」(すなわち「所有」)からは「歴史」さらには「歴史性Geschihitlichikeit」へと至る。
で、この「時間性」のイメージとしては、「必然」めいたものを頭に浮かべてもらえればいい。
 そして「歴史性」の方は、「運命」もしくは「宿命」である。
 それらは「存在」の方から透して見た時、一種の属性のようなものでしかない。
 しかし、その究極にある「テンポラリテートTemporalität」へと至り、そこを基準にどっこらせと「ちゃぶ台返し」した時、それらは「存在」を、そして「現存在」をも規定しうる根元として立ち上がってくる。

時間→存在

 と逆転したところから見ると、時間としての本来的な存在が現れ、さらに歴史性の中に現存在が現れる。それこそは本来的な現存在である。「本来性」とは元々そうあるべき形であり、つまりは現存在は歴史性の中にあることこそが本来で、それ以外の現存在は頽落したものだ、ということになる。
 現存在のあり方としての人間とは、運命として、宿命として、歴史の中に身を投じることが本来あるべき姿だ、という結論が導き出される。
 その歴史とは、国家なり民族なりの形で現れるもので、人間は国家や民族にその身を与けることこそが本来なのだ、というわけである。
 ハイデガーが考えていたのは、だいたいこんなところである。

 と・こ・ろ・が、どうしてもこの「ちゃぶ台」がひっくり返らないのだ。
 なんでひっくり返らないのか。そのことについて木田元は以下のように述べている。
………………
 彼は『存在と時間』において、現存在にその在り方、生き方を変えさせることによって存在了解の転換をはかり、そうすることによって存在者全体との現存在の関わり方、つまりは世界の在り方を転換しようと企てたのである。しかし、もともと彼の狙いは、西洋近代の人間中心主義(ヒューマニズム)的な文化形成の克服にあった。とすれば、人間中心主義克服の主導権を人間の自己転換にゆだねるというのは明らかに自己撞着と言うべきであろう。これに気づいたことが、『存在と時間』中断の原因であったにちがいない。
………………

 ぶっちゃけた話、自分がひっくり返そうとしている「ちゃぶ台」に、自分が乗っかっちゃってるからひっくり返らない、ということである。
 それを「テンポラリテート」を使ってタイムマシン的にひっくり返そうとしたけど、いわゆるタイムパラドックスみたいなものが起きてしまって上手くいかないのである。助けて〜ドラエモ〜ン、な感じだ。
 だって、死を超えた先にある時間としての「在り方」をテコにするったって、人間は必然的に「死ぬ」わけだし、その必然をひっくり返すなんて、死という必然の上に乗っかってる限り無理ってもんでしょ。「不死の超人」にでもならない限り。

 ところがその「ちゃぶ台」を、理屈も何もなく暴力的gewaltsamにひっくり返す連中が現れたのだ。
 それがドラえもん、じゃなくて、ヒトラー率いるナチスである。
 ハイデガーが哲学によってたどり着こうとした、民族の宿命に自らの存在を投げ込む、新たな人間の在り方がそこにあったのだ。

 次回は、存在論が暴力に親和してしまうことについて、少々。

0 件のコメント:

コメントを投稿