2017年9月18日月曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…は「時間」について自分でよく解らないぶんまで誰かに判って欲しかったらしい編】

存在と時間 3 
(古典新訳文庫)
 さて、いよいよ「時間」である。

 ハイデガーは時間について、「時間性」という新たな概念を提出してきている。それは、テンポラリテートTemporalitätとツァイトリヒカイトZeitlichkeitである。この二つはどうやら「はっきり分かれてる」はずのもので、Zeitlichkeitは概ね「時間性」と訳される(辻村訳では時性)が、Temporalitätは有時性とか時節性とかそのまんまテンポラリテートと書かれたりする。木田先生はそのまんま。辻村訳は最初「とき性」だったが、のちにそのまんまになった。
 なんでこんな混乱した事態になっているかというと、ハイデガーが『存在と時間』でテンポラリテートTemporalitätについてぜーんぜん論じてないからだ。多分、というか確実に、あとで書くはずだった「下巻」の方で論じるつもりだったのだろう。木田元先生の調査では、書かれなかった下巻はこのように構成される予定だったという。
哲学と反哲学
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第二部 テンポラリテートの問題群を手引きとしてなされる存在論の歴史の現象学解体の概要
 第一篇 テンポラリテートの問題群の前段階としてのカントの図式機能および時間論
 第二篇 デカルトの〈cogito sum〉の存在論的基盤と、res cogitans の問題群への中世存在論の継承
 第三篇 古代存在論の現象的基盤とその限界の判定基準としてのアリストテレスの時間論
………………
 これらは結局お蔵入りになってしまった。
 なんというか、長期連載のマンガで重要な伏線を回収しないまんま最終回になっちゃった、みたいな事態が生じてしまったわけで、論文提出のために大慌てで書いた上巻に、とりあえず下巻で述べる予定のことも先取りして「まだまだ続くよ!」とねじ込んだわけである。そのせいで時間性ZeitlichkeitがテンポラリテートTemporalitätみたいに論じられてしまったりしているのだ。
    じゃあ、のちの下巻に入るはずだった「時間と存在」の内容を持つとされる『現象学の根本問題』(全集版では『根本諸問題』)ではちゃんとしてるかというと、
………………
われわれは時性をテンポラリテートと名づけるのである。(全集版)
現象学の根本問題
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 なんて言ってる。なんやねん。
 というわけで、ここで辻村公一のハイデガーへのツッコミをもう一度あげてみよう。
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「『有と時注:『存在と時間』のこと』が未完成に終わったのは、『時と有』(注:『時間と存在』のこと)の箇所に於ける『とき性(Temporalität)』の問題が『とき性』とされることに於いて一種の意味に化してしまい、『とき性』でなくなるからではないか」 
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 ハイデガーはこの質問に上手く答えられなかった。
 この辻村公一の問いはどういう意味かというと、その「意味」が問題になってくるのだ。
 ハイデガーの言う「意味」Sinnとは何か。
 第65節にこんな記述がある。
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気づかいSorgeの意味によって、存在論的に探しもとめられているものはなんだろうか。意味とは何を意味するのだろうか。Was bedeutet Sinn?
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 ここで気づかいの「意味」については後回しになって、「意味」とは何かという話になる。
 で、「意味」とは
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あるものの理解可能性がそのうちで保持されているもののことである。
………………
意味とは、第一次的な投企の〈それにもとづいてWoraufhin〉を意味する。
………………
 この部分の〈〉は、訳者(熊野純彦)が便宜的に付しているもので、現文の方にはない。ハイデガーは本来副詞であるworaufhinを、頭文字を大文字にすることで名詞として扱っているので、こういうふうにしたのだろう。
 ハイデガーは副詞を名詞みたく扱うことで、「意味」が何を意味するか、というトンチ問答を切り抜けようとしてるわけだ。
 なんでそんな小賢しいことをせにゃならんかというと、ハイデガーの言う「意味Sinn」は、結局のところ現存在に基づいたものだからだ。現存在との関係性によって「意味」が生じてくるのである。
 ぶっちゃけ、人間がそれを所有するかどうかで「意味」なんてものは変わってくるわけで、現存在が「所有」のことだと分かっていれば、所有できない、したいとは思わないものは、その人にとって「無意味」だと了解できる。無意味なガラクタは、やっぱり無意味なのだ。「意味」とはただ言語学的なものではなく、感覚やセンスというニュアンスがたっぷり含まれている。これはドイツ語のSinnもそうなので。

 ここで、ちょっと横道に入って、ハイデガー哲学の「転回Kehre」について述べなくちゃならない。
 ハイデガーの哲学は『存在と時間』以後にある時点で「転回」があって、ハイデガーは一貫性を保ちながらその哲学を「転回」させたという。
 どのような転回かというと、「存在の意味への問い」から、「存在の真理への問い」になったということである。
 どういうことかというと、「意味」というあくまで現存在に基づいた存在論から、真理Wahrheitという、現存在を存在として規定しうる「こと」を問うようになった、てわけ。
 つまり、ここでハイデガーはお得意の「ちゃぶ台返し」をやっている。
 やってるんだけど、実はあんまりひっくり返ってるように見えない。
 それは時間のことを語ると、どうしても「意味」になってきて、テンポラリテートなんて仮に名付けた、時間の「真理」にたどり着けてないからじゃないの?、と辻村公一はつっこんだわけだ。で、ハイデガーは「それについては、ずっと考えてんだけどね」とごにょごにょいうばかりだった。

 で、この上手く「ちゃぶ台返し」できなかったことに、ハイデガーがヒトラーを賛美して、しかもそのことについて反省しようとしなかった要因がある。
 というところで、次回に

ちゃぶ台返しするうさぎ

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