2017年1月19日木曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の解釈についての先駆者について編】

    一連のハイデガーについてのエントリーは、ナチスとハイデガーが根本で一致するということの暴露を目的としている。
 それには、ハーバーマスですら「この作品の実質的内容が信頼に足りえないという考えは、誤っている」と評価した『存在と時間』について、誰が見ても明らかなくらいにわかりやすく「開示」することが必要だとも考えている。

 おおむねハイデガーについての解説書は、木田元の言う通り「ハイデガーの言葉をお経のように繰りかえしてる」ことに終始していて、インターネット内だとそれに「俺はわかってるけど、お前はわかってないだろう」と無駄にふんぞり返る、という態度がプラスされる。
 まあそういうのも楽しいんだろうけど、それより『存在と時間』をハイデガー自身のやり方で「解釈」することで、その語るところを「開示」してやることが必要だと考え、「現存在Dasein」が「所有」であるという解釈に至った。
 この解釈にたどり着いた後、現在入手しうる『存在と時間』の翻訳を原書を参照しつつ読み(原書はネットで読める)、その他の著作と創文社の『ハイデッガー全集』の主だった部分を読み直してみた(誰かほめて!)ところ、それまで難解に思っていた部分がすんなりすいすい楽々かんたん暗記法みたいに頭に入ってきて、だいたいこの方向で間違いないだろうと確信した。

 では、他にハイデガーについて似たような考えをした先駆者はいないだろうか?
 そう思って探ってみると、まず川原栄峰という人がいた。この人はドイツに留学してハイデガーに会ったこともあり、さらに晩年は高野山の権大僧正になったという人である。
 彼はハイデガーの「存在」について、
………………
「存在」とは訳さないで「居住」と訳した方がいい。
………………
 という。
 Seinは語源的に「住む」という意味があり、ハイデガーの存在論は「そこに住んでいる」ことが重要だとする。
 これはかなり面白い指摘だ。
「所有」も語源的には「所」を「有する」ことであり、その根元はそこに安心して住まうことがある。
 
 そしてさらにまた探ってみると、和辻哲郎を見出すことができた。
…………………
……ハイデッガーがギリシア語のousiaについて論じている。ousiaはもと所有物を意味する語であって、その意味はアリストテレスにおいてもなお保持せられている。
…………………
 ここで和辻哲郎はousiaを「実存」と訳すことをしていない。九鬼周造の造語である「実存」はこの当時(昭和六年)まだ定着していなかった。
……………………
……かかる解釈によって彼(注:ハイデガー)はousiaやその訳語たるessentiaを交渉的存在の中へ連れ込むのである。有もまたきわめて顕著に右のごとき解釈を誘い出すと思われる。有為、有意、有志、有罪、有利、有徳、などの用法において、有の下に来るものは有るとともに所有である。
(中略)
 一切の「がある」は人間が有つことを根柢とし、そうしてかく物を有つ人間があることは人間が己自身を有つことにほかならぬとすれば、「がある」の学である有論は究極において人間が己自身を有つことにまで突き入らねばならぬ。そうして人間が己自身を有つことを言い現わす言葉がまさに「存在」なのである。
…………………
 さすが和辻。やるな。
 ここで自身の名誉のために余計な言い訳をしておくと、ハイデガーの現存在を所有と解釈することに行き着いたあとで、この和辻哲郎の論を知ったのである。さらに重ねてみっともないことを書くと、ここにある「存在」を「所有」ととらえることについて、ずいぶん前に、独自に、ほぼ同じ考えに至ったのだが、それを踏み台にして読んでみても「どうもこれではまだ足らない」ともどかしくなり、ようやく「現存在こそが所有である」という解釈にたどり着いたのだ。正直、和辻のこのくだりを読んだとき、「あちゃー、やられたか」と思ってどきどきした。
 しかし和辻哲郎はハイデガーのDaseinについて、現存在ではなく「現に有るもの」と訳し、
……………………
……このDaseinの存在的内容は我としての人にほかならない。
…………………
 としている。
 和辻哲郎においてすでにして、現存在=人間なのである。
 もちろんここで、俺は和辻哲郎より優秀なのだ、などとドヤ顔したいわけではない。現代は『存在と時間』の訳本が数種類、解説書にいたっては数十種類出版されており、いわば和辻哲郎が東海道を徒歩で歩いているのに対して、私は新幹線に乗っているようなものだからだ。

 では次回、本筋に戻ってさらに踏み込んでみよう。

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