2016年12月27日火曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「現存在」の正体はこれだ…という前に述べておかなくてはならないこと編】

ヘラクレイトス
 (ハイデッガー全集)
   昔々その昔、ギリシャにヘラクレイトスという哲学者がいた。
 よく似た名前にヘラクレスという筋肉バカがいるが、あんなカブトムシ並みの知性の持ち主とは真逆の存在である。
 彼は言った。「万物は流転する!」さらにこうも言った。「あらゆるものは火からかたちづくられている!」
 深遠なる哲学を身につけた彼は、人を嫌って山中で暮らすうちに、身体中に水ぶくれ(水腫)ができてしまった。やむなく街へと降り、医者たちに謎をかけて回った。
「豪雨から旱魃を作り出せるものはいるか?」
「臓腑を空にして水分を出してしまえるものはいるか?」
 医者たちは皆首をかしげ、ヘラクレイトスは彼らに背を向けた。そしてて牛小屋に入ると、牛糞の山の中に寝転がった。子供達を呼んで全身に塗りつけさせた、という話もある。
 そうしてそのまま死んでしまった。享年六十。
 火の熱をすべての根源と考える彼は、牛糞の発する熱が水ぶくれの水分を蒸発させることを期待したのだ。
 なんというか、己の哲学に殉じた、と言えなくもないかもしれない。
   とは言え、ヘラクレイトスの死体を片付けた人たちは、さぞかし難儀だったことだろう。

 アリストテレスは『動物部分論』(A5.645a17)において、以下のようにヘラクレイトスのエピソードの一つを伝えている。
…………………
 ヘラクレイトスに会いたいと思って来た客人たちは、家の中に入るとヘラクレイトスが竃(かまど)にあたって暖をとっているのが見えて佇んでいたのであるが、その客人たちに向かって彼が言ったと伝えられているように(すなわち彼は、ここにもまた神々がいるのだから、と言って、客人たちに臆せずに入りなさいと勧めたのである)、おのおのの動物に関する探求に向かっても、そのように、あらゆるものに何か自然で美しいところがあると思って、臆することなく入っていかなければならない。
………………
 これは「断片九」として整理されている。ヘラクレイトスの著作は残っておらず、彼の事績はこのような断片から推察するしかない。
 ハイデガーは『ヘラクレイトス』でこの部分を以下のように記している。
………………
 Hρ­ακλειτος λεγεται προς τους βουλομενους εντυχειν αυτωι, οι επειοη προσιοντες ειοον αυτον θερομενον προς τωι ιπνωι εσησαν,  εκελευε γαρ αυτους εισιεναι θαρρουντας ειναι γαρ και ενταυθα θεους…(ギリシャ語の符号は力不足で入力できませんでした)
「ヘラクレイトスについては(一つの語)つまり彼が、彼のもとを訪れようとした見知らぬ人々に向かって言った(一つの語)が、語り伝えられている。こちらへと近づきながら人びとは、彼がパン焼き竃で身を暖めている様を見かけた。彼らはその場に立ち止まったが(驚いてそしてそれは何よりも)ヘラクレイトスが、彼らに(躊躇している者たちにその上また)語りかけて勇気付けそして次のような語で彼らになかへと入るように命じたからである、すなわち》ここにも神々は臨在しつつあるのだから《と。」
…………………
 終わり近くにかっこが 》《 となっているのは、ドイツ語だとそうするのが普通だからだ。こういうところ、翻訳が無駄に律儀だと読みづらくなる。
 それはともかく、ハイデガーのこのエピソードについての「解釈」は、アリストテレスのそれとはずいぶんと違う。
……………………
 思索家が次のように言うとき、すなわちココニモ〈και ενταυθα〉——「そこにおいても」、つまり竃ニ〈εν τωι ιπνωι〉——「パン焼き竃に」も、打ち解けざる不気味なものが臨在している、と言うとき彼が実際に言わんとしているのは、そこにのみ神々の臨在はある、ということである。つまりどこにであろうか。目立たない日常的なものの内に、である。(中略)言い換えればすなわち、私という思索家が留まっているその場所には、目立たないものが最高の仕方で現れかつ輝いているものと共に、一緒にある、ということである。私が滞在しているその場所には、相互に排除し合うかに見えるものが一つに集まっている。ここでは、つまり思索化の境域の内ではいたるところで、相互に対立しており互いに排除し合うかに見えるものつまり反対向きのものが、同時に、相互に向き合っているところのものである。このような向き合いは、ことによるとそれどころか、一方が他方に対抗し得るためだけでも、そのためにあらねばらなないのかもしれない。かかるものが統べているところに、争い(エリス〈ερις〉)は統べている。思索家は争いを帯びたものの近くに滞留しているのである。
……………………
 このようにギリシャ古典哲学の本来の意味、当時の哲学者が気づいていながら上手くあらわせなかった「意味」について、それをあらわにするのが本来の「解釈学hermeneutik」である。ハイデガーはフッサールゆずりの現象学的手法により、時代を超越して「存在」そのものを「解釈」しようとした。
 ハイデガーは自らを「ヘラクレイトス以来唯一の、傑出した思想家」として任じていたという。(ヴァルター・オイケンによる証言)


 では次に、ハイデガーのひそみに倣って「実存」について「解釈」してみよう。「実存」とは九鬼周造による翻訳語で、事実存在の省略形である。そして、その本来のギリシャ語はουσιαウーシアまたはπαρουσιαパルーシアである。
 ウーシアもパルーシアも、プラトンやアリストテレスによって「実存」という哲学用語として扱われているが、元々の意味は「財産」または「土地」である。
    そうした「実存」について、ハイデガーは『形而上学入門』において以下のように述べている。
……………………
…………すべてギリシア人がousiaと呼び、あるいは、より完全にはparousiaと呼んでいるものに基づき、それによって統べ保たれているのである。このousiaあるいはparousiaにおいて、ギリシア人は疑いもなく存在の意味を経験した。(中略)われわれはparousiaにうまく当てはまるドイツ語として現-存(アン・ヴェーゼンAn-wesen)という語を持っている。われわれドイツ人は、ひとまとめになっている地所・屋敷のことをAnwesenと呼ぶ。アリストテレスの時代には、なおousiaはこの意味とさらに哲学的な基礎用語の意味との二つの意味で使われている。或るものが現-存する。それは自己の中で立ち、自己をそのように呈示している。それはある。「存在」とはギリシア人にとっては根本的には現存在を意味する。
……………………
 ここでハイデガーは、「実存」とは本来土地や建物などの財産である、と述べているように見える。
 そしてハイデガーは、「現存在の本質は『実存』にある」と『存在と時間』で再三のべている。
 それならば、改めて「現存在」とはいったい何なのだろうか?



 ……というところで、次回いよいよ現存在について「解釈」します。

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