2016年9月5日月曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…を解読するには東洋思想が鍵になったりするんだろうか?編】

マルティンとフリッツ・ハイデッガー
「毛沢東をどう思われますか?」
「毛沢東は老子のGe-stellです」

 これはハイデガーの講演が終わった後、なされた問答である。
 訊ねたのは聴衆の一人であるご婦人だが、答えたのはハイデガー本人ではない。 マルティン・ハイデガーによく似た
弟のフリッツ・ハイデガーである。
 間違えて質問され、本人のフリをして答えてるわけだが、結構うまいこと答えるもんだと感心する。
 フリッツは兄ハイデガーの哲学の護り手であり、辻村公一訳の『有と時』(『存在と時間』のこと。なんでこんなタイトルなのかは後述)の冒頭で、訳者からフリッツ宛てに謝辞が述べられている。
 そして、Ge-stellとは後期ハイデガーの重要な概念で、全集版では「総かり立て体制」などと訳される。通常のGestellはただ骨格とか大枠の意味だが、ハイデガーは「あらゆる存在者(資源にしろ人間にしろ)をかき集めて容赦なく組み立てに使用するシステム」のような意味で使っている。

 ここで「老子」の名が出てくるわけだが、実際ハイデガーは老子について並々ならぬ関心を持っていた。
言葉への途上 
(ハイデッガー全集12)
……………
 ……道(Weg)はものを考えようとする人間に向かって語りかけられた、言葉の中でも根源的な語なのかも知れません。老子が詩的な思考に励んだときの中心概念を示す語はタオで、「本来は」道を意味するものです。……このタオとは、理性・精神・意味・ロゴスが本来──本来というのはそれぞれの本質によってということになりますが──何を言おうとしているのか、を我々が考えてゆくことのできる原点となるものでしょう。この「道」、すなわち、タオという後には、思考しつつ言うことのもつあらゆる秘密の中に最たる秘密が匿されているように思われます。

……………
 以上、『言葉の本質』の中の記述である。「道Tao」についてただ道ではなく「言う」という意味があることもちゃんと押さえている。実はハイデガーは老子を翻訳しようとして挫折したことがあるのだ。
 一九四六年、蕭欣義(Hsiao Shih-yi, または Paul Shih-yi Hsiao)と出会い、彼と協力して訳そうとしたが、八章までしか進まなかったそうだ。原因はハイデガーがやたらと「道Tao」について蕭欣義に問うたせいらしい。まあ、うざったくなったんだろう。しかし挫折後も、老子の顯德第十五にある「孰能濁以静之徐清。 孰能安以動之徐生」の語を漢字のまま書いてもらって、寝室に飾るということはしていたようだ。
老子『道徳経』ドイツ語訳
    さらにハイデガーは、全集の冒頭において「Weg──nichit Werke(道──著作ではなく)」の語を掲げている。本来序文を書くはずだったが、死を間近にして断念し、代わりにこの語を示すことにしたのだという。いわば絶筆である。道Wegもまた、後期ハイデガーの重要な概念である。
 ……と、ここまでくると、なんだかハイデガーを読み解く鍵は東洋思想にあるように思えてくる。実際、そうした考察もないではない。これとかこれとかこれとか。
 ハイデガーが八〇歳になった時、東洋哲学との関係を問うシンポジウムが開かれ、ハイデガーもそこで自らの哲学と東洋哲学との関わりを認めてはいる。

 だがしかし、ちゃぶ台をひっくり返すようで申し訳ないけれど、実際にハイデガーを読むと、その著作から「東洋」の匂いはほとんど感じられない。そこにあるのはやはり、プロテスタント神学でありトマス・アクィナスでありアウグスティヌスであり、さらに掘り返してもアリストテレスとヘラクレイトスなのだ。ハイデガーは哲学の前に神学を修めており、土台としているものは確実にこちらの方である。
 ハイデガーの老子云々は、どちらかと言えば、東洋「趣味」という程度でしかないのではなかろうか?
 こういうのは、なんというか、ハイデガーによる一種の「手品」のように見える。
 それは、自らの哲学をより一層深淵に見せかける、光線の屈折を利用したマジックだ。
 ハイデガーは昔、「メスキルヒの小さな手品師」とあだ名されていた。メスキルヒはハイデガーの故郷であり、「小さな」はハイデガーが背が高くなかったことに由来する。
 ハイデガーを読み解くには、ハイデガーの余計な手の動きに惑わされることなく、その手品の「タネ」を見通すことが必要になってくる、と思うのだが……

 次回さらにその「東洋趣味」を掘り返してみたい。

西谷啓治によるハイデガー

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