2016年6月6日月曜日

宮沢賢治『春と修羅』の「春」はどこからくるのかもしくは勅使川原三郎『春と修羅』について

春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)
    宮沢賢治はダンスしただろうか?
 しなかっただろう。盆踊りくらいはしたかもしれないが。若い頃の賢治を知る人は、賢治は音楽好きだが音痴だったと証言している。これはずいぶん親近感を覚える話である。
春と修羅』の中に、「原体剣舞連(はらたいけんばいれん)」という詩があって、これは岩手県江刺市の原体というところに伝わる念仏踊りに取材したものだ。踊り手は伝統的に皆少年である。
 勅使川原三郎はずいぶん前に(と言っても、個人的にはほんのこのあいだのことに思えるのだが)『Dah‐dah‐sko‐dah‐dah』という、この賢治の詩を題材にしたダンスを踊ったことがある。
 舞台を見たのはもちろんだが、それから少し経ってNHKの番組でこの剣舞についての番組があり、今は亡き大滝秀治の朗読をバックにどこかの草原で勅使川原三郎が踊っている映像が流れたことがある。今思うとビデオに撮っておけばよかった、と悔やまれてならない。

 先日、またアップデイトダンスへと勅使川原三郎と佐東梨穂子のダンスを見に行った。
 題材は賢治の『春と修羅』である。
 改めて見ると、このタイトルである「春」と「修羅」の取り合わせは奇妙な印象を受ける。修羅は阿修羅であり、無限に続く終わりなき戦いを象徴する。「春」という穏やかな季節にはふさわしからぬように思える。しかし逆に、修羅は「生命力」を象徴するものでもある。その修羅を「鬼」と見るならば、昔から春の農作物を祝福する祭りに「鬼」はつきものであった。節分の鬼やらい(追儺)もそれと関わる、と折口信夫は『鬼の話』に書いている。
 ステージで始まった二人のダンスは、実に激しいものだった。
 それによって、賢治の詩(心象スケッチ)は生命力にあふれた激しいものを持っている、ということが改めて観客に知らされる。
 佐東梨穂子の休むことなく回転する掌の動きからは、蠕虫舞手(アンネリダ・タンツェーリン)の、「8(エイト)、γ(ガムマー)、e(いー)6(シックス)、α(アルファ)」が思い浮かんだ。
 途中、『春と修羅』の朗読が流れた。
 有名な序ではなく、『春と修羅』第二集の「春」であった。
 この第二集は、賢治の生前にほとんど出版の準備ができていたが、賢治が費用の二十円を無産政党に寄付してしまい、果たせなくなったというエピソードがある。それから一年と経たぬうち、賢治は死んでしまった。
「修羅」のつかない、「春」と題された詩は不可思議な内容を持っている。
…………
 空気がぬるみ
 沼には鷺百合の花が咲いた
 むすめたちは
 みなつややかな黒髪をすべらかし
 あたらしい紺のペツティコートや
 また春らしい水いろの上着
 プラツトフオームの陸橋の段のところでは
 赤縞のずぼんをはいた老楽長が
 そらこんな工合だといふふうに
 楽譜を読んできかせてゐるし
 山脈はけむりになつてほのかにながれ
 鳥は燕麦のたねのやうに
 いくかたまりもいくかたまりも過ぎ
 青い蛇はきれいなはねをひろげて 
 そらのひかりをとんで行く
 ワルツ第CZ号の列車は
 まだ向ふのぷりぷり顫ふ地平線に
 その白いかたちを見せていない
 …………
 さらに、『「春」変奏曲』という詩に続く。
 …………
 いろいろな花の爵やカツプ、
 それが厳しい蓋を開けて、
 青や黄いろの花粉を噴くと、
 そのあるものは
 片つぱしから沼に落ちて
 渦になつたり条になつたり
 ぎらぎら緑の葉をつき出した水ぎぼうしの株を
 あつちへこつちへ避けてしづかに滑つてゐる
 ところがプラットフォームにならんだむすめ
 そのうちひとりがいつまでたつても笑ひをやめず
 みんなが肩やせなかを叩き
 いろいろしてもどうしても笑ひやめず
(以下略)
(新修『宮沢賢治全集』第三巻より。仮名遣いもそれに準じました)
……………
 笑いやまないのは「ギルダちゃん」という女の子で、他の女の子たちと一緒に駅で列車を待っている。笑いが止まらなくなったのは星葉木の胞子のせいで、楽長さんのアドヴァイスでそれを吐き出し、事なきを得る。そしてそこへ、ベーリング行XZ号が走ってくる。
 これは詩というよりも何かのファンタジーのような内容を持っていて、晩年の賢治の「春」とはこのようにどこまでもふわふわとしていて、やってくるのは「鬼」ではなく「ワルツ第CZ号」や「ベーリング行XZ号」という列車である。いや、やってくるものが何であれ、春来るものは生命力をそこへともたらす何かなのだ。現にこの「春」の初稿は「ワルツCZ号列車」というタイトルだったという。これはドヴォルザークの「Czech Waltz, Op. 54, No. 4」と関係するのだろうか?

 今回、アップデイトダンスの最終日を見たのだが、本当はもっと何度も見てから語るべきなのかもしれない。今回の『春と修羅』ではいつもに増して、そう強く思わされた。
「春」はたちまちに生成繁茂し、その姿を変える季節だからだ。
 私のようにその余裕がないものが、感想を垂れ流すのはそろそろ控えねばならないのだろうか?


春と修羅」研究 1 (宮沢賢治研究叢書 3)

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