2016年6月10日金曜日

それを無理に歴史と呼ばなくてもいいんじゃないだろうか。

私は隣人たちから嫌われている。
みんながもう忘れてもいい時期じゃないかと思うことについて語りたがるからだ。

(ハインリヒ・ベル)

経験と歴史から学びうることは、人民も政府も歴史から学んだりしないこと、そして歴史から得た教訓を生かしたことなど全然無い、ということだ。(ヘーゲル『歴史哲学講義』)

カタリーナの失われた名誉
―言論の暴力はいかなる
結果を生むか (1975年)

 どんな時に歴史というものを生々しく感じるかというと、やはり子供と会話してる時ですね。
 なんたって阪神・淡路の震災も知らなきゃ、オウムがなんなのかも知らないんですから。こういう生々しさってのはきっと、「戦争を知らない子供たち」に対して昔の大人たちが感じたのと似たようなものなのでしょう。
 それでなくても、「昭和」というものがどんどんひからびて、「歴史」に変わって行くのを見ると、なんとも言えない気持ちになります。

「歴史」という言葉は日常でも多義的にとりあつかわれていて、一筋縄では行かないんですが、おおよその場合「歴史から学ぼう」というかけ声は、眼前にある「歴史」をミイラのようにひからびさせてしまいます。
 日常的に口にされる「歴史」は、目の前から取りのけられていて、すっかりひからびたものがガラスケースの向こうで無菌状態に保たれているものを差したりします。というか、そういうもの以外を歴史と呼びたがらない人が大勢いるんですね。

 歴史というものは、ある意味ライブ感覚で現前するものです。ヘーゲルがナポレオンが行進するのを目撃して「あれこそ世界精神だ」と言ったのも、そういうライブ感覚からくるものです。ヘーゲルがそこに「歴史の終焉を見た」というのがコジェーヴの解釈だというのがフランシス・フクヤマの解釈だけど、むしろそこに生の歴史を見た、という方が正しいと思います。

 ひからびた歴史と、ライブ感覚の、生の歴史の違いは何か。
歴史哲学講義 
上・下 全2巻セット (岩波文庫)
 おおむね、ひからびた歴史は飲み込みやすく、生の歴史は飲み込みづらい、というところにあるでしょう。生の歴史は食事時の話題になりづらく、西荻窪の線路沿いの一杯飲み屋でサカナにするには、ひからびたものの方が酒に合うようです。ちょっと憎まれ口を叩いておくと、ネットで賛同を得やすいのもひからびた方がいいみたいです。
「歴史から学ぼう」という人は、ほとんどがひからびた歴史を指差して、「生の歴史を早くひからびさせることが正しい歴史のあり方だ」とおっしゃいます。「それが歴史から学ぶということにつながる」と続けたりします。そして残念なことに、かなり大勢の人たちがそういう「歴史をひからびさせる」ことに賛意を表明します。
 たとえば、先般の震災と原発の崩壊を「敗戦」に例えて事足れりとする人たちが多くいました。その中には、これまである程度尊敬の念を抱いていた人も少なくありませんでした。敗戦ね、便利な言葉です。日本はいったい何度「敗戦」すればいいのでしょう。眼前の生の歴史をすぐにひからびさせてしまう、超強力乾燥機のような「敗戦」という単語は、歴史の生々しさから人々の目をそらすのにとても便利です。
 そんな中で生の歴史を語ろうとすれば、水筒一つで砂漠を横断するような苦難を覚悟しなくてはなりません。誰がそれを行えるでしょう。伝説の聖人でもなければ、キャラバンを組んでラクダやオアシスに頼らざるを得ないでしょう。

 ハインリヒ・ベルが冒頭の言葉を口にしたのは、死ぬ少し前のことでした。
 その時、ベルはすでにノーベル賞をうけ、海外からはドイツを代表する作家であり、言論人であるという評価を得ていました。しかし、ベルは近所の人々や日常的に出会う一般の人々から嫌われていたのです。

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