2016年5月25日水曜日

昔はテレビで「出んのう屁えが」なんてギャグもやってたもんだけど

   こんなものが入荷しました。『実話雑誌』昭和二十五年五月号。カストリよりややマシか、そんなレベルの雑誌です。まだ「戦後」は全然終ってなくて、こんな雑誌がおできより簡単に、できてはつぶれ、つぶれてはでき、ってしてました。
 特集の一番下に、角ゴチックで「天皇立候補一覧表」なんて書いてありますね。おお、戦後の混乱で天皇を選挙で選ぶ事になったのだろうか、なんてなことはありません。この時期、「実は我こそ正当な天皇」と称する人間が雨後のタケノコよろしく全国に現れまして、その中の有名どころをリストアップしてるんです。現天皇は北朝の子孫で、「正統である」とされる南朝の方は途切れちゃってるもんだから、こういうときに我もわれもと群がり出てくるんですね。
 戦前でも「芦原将軍」というのがいまして、真の天皇を自称してずーっと精神病院に入ってました。どういう風向きか変な人気がでて、雑誌などにちょくちょくインタビュー記事が載ったそうです。
 さて、話を画像の雑誌に戻して、この天皇立候補の他にも「町屋火葬場空棺事件」だの「糞まみれの死体」だの「変態も程々に」だのという、うさんくさい記事が並んでおります。その中に「南帝さん拝謁記」という記事、というか中井智由喜という人が書いた小説仕立ての文章で、まあ楽しめる人だけ楽しんで下さいという調子のものが挟まっています。これは当時有名だった「熊沢天皇」に、たまたま縁があって拝謁(?)したという話になってます。
「熊沢天皇」ってのは、数多の自称天皇のハシリみたいな人で、昭和二十一年には有名なライフ誌にも記事が掲載されました。昭和四十一年に亡くなりましたが、確か今も信者が残っているときいています。
 その「拝謁記」を、ちょいと試みに写してみたいと思います。

    まず冒頭の三割ほどはどうでもいい内容なので、「謁見」の辺りから写します。あ、旧字旧仮名は新字新仮名に、あきらかな誤字も修正しておきます。それでは、はじまりはじまり。

…………
謁見
 謁見の間と云えば大げさに聴こえるが、相手が天皇であれば謁見の字句も不当ではなく、その場所を、間と言っても誇張ではあるまい。確かに謁見の間であった。それにしても四畳半とは何としても小じんまり過ぎているが、今夜は部屋の中央に、カーキ色の配給毛布が絨毯代わりに敷かれてあり、赤い漆塗りの夫婦膳の前に、時の人、熊沢天皇は泰然と膝を揃えておられた。
 その右側は、吉田内閣総理大臣である。といっても、間違って貰っては困るが、熊沢天皇の侍従長であり、スポークスマンである吉田長蔵氏なのだ。現政府の首班が吉田茂であるのに対し、熊沢天皇の総理大臣にも匹敵すべき人が吉田姓なのも、妙な対照である。
 左側は例の女官長、池永愛子女史で、さすがに女性らしく神妙な居ずまいであったが、その隣りの貴公子然とした青年は胡座をかいていた。
 この青年は、紹介されて判ったのであるが、その昔の南朝の忠臣、菊池某の後裔と称する御仁で、ある私立大学の助教授であり、吉田長蔵氏が左大臣であれば、右大臣の位置にある人物であった。
 熊沢天皇を始め、いずれも古びてはいるがモーニングの礼装であり、金色燦然とした十六菊花紋章のバッチが、互いの胸にきらきら輝いて見えた。
『あの……この人が高杉さんと言って、小説を書いてはるお人です……この人の書かれた小説を読ましてもらいましたけど、仲々御上手でしてな……』
 池永女官長の紹介の弁であった。このお世辞に大変くすぐったくなった高杉は、やおら顔を上げて熊沢天皇を見上げた。てかてかに禿げた頭、この奥に眼ありと云った金壷眼、その眼はじっと自分を見降していたが、さすがに犯しがたい気品であった。熊沢家は明治四十一年内大臣府から南朝の直系なりと、治定になっているのである。
『わたしが熊沢です。どうぞ宜しく……』
 と、天皇は、高杉より先の言葉をかけてきた。
 それにしても、妙にとろくさいアクセントで、名古屋弁丸出しであった。
 裕仁天皇の玉音が女性的であると外電は伝えていたが、熊沢天皇も、ややそれに近い柔和な音律である。
『わたしはこれから、目黒の知人宅に帰りますが、それまで一時間ばかり、貴方とお話がしたいと思いましてね……』
 熊沢氏は単刀直入に玉音を転がしてきた。

『はッ……どうぞ宜しく』
 と、高杉は恐縮した。
『なにか質問はありませんか?』
 またしても天皇は高杉の発言を求めた。なかなか性急であるのが判る。
『はあ……』
 と、彼は受返事したが、一寸間誤ついてしまった。面会を申し込んだのは当の熊沢天皇であって、言わば、高杉はお召しを受けた立場なのである。
 彼は、天皇の真意が奈辺にあるか了解に苦しむのだった。

南帝さん 
 しかし、熊沢氏や吉田氏、そして女官長池永女史の口吻で、ほぼ察しはついてくるのであった。即ち、右大臣でもあろう大学助教授の言葉を借りれば、彼等は彼等なりの大義名分をもって、現南朝の忠臣を広く傘下に集めんとしているのだった。それには、新憲法で保証だれた言論の自由があり、出版の権利がある。彼等は五百有余年の往時に想いをはせ、近世に誤り伝えられていると云う歴史の修正を念願としているというのであった。いつぞや読売紙の希望探訪に、三種の神器の実在に関した記事が出ると、熊沢天皇は早速新聞社を訪れ「現皇室にある筈も無し」と、大見得をきったようだが、これもある意味のゼスチュアと解されるべきであろう。
 つまり高杉は、池永女官長の推挙により、南朝の忠臣候補者に選ばれたようである。
『ねえ高杉さん、南帝さんとこうしてお目にかかれるのも、屹度貴男のご先祖の引き合わせかもしれませんよ。お国は九州とか仰有っていましたが、あちらは南朝の忠臣たちが都落ちしたところですからね……』
 こんなことを池永女官長は言ったのである。彼の故郷は熊本県天草郡である。あるいは池永女官長のいうように、彼の先祖は楠木正成や、菊池武時等の家臣であったかも知れないが、とにかく五百年も昔のことである。いかに女官長のお言葉とはいえ、高杉はなんだかこそばゆく、いささか狐につままれた感じである。
 尤も吉田長蔵氏は北畠某の後裔と言うし、池永女史の亡母の里方も、南朝に由緒ある武士の血筋と聴く。大学助教授の菊池氏云々は先に書いたが、今や熊沢天皇の周囲には、その昔の南朝関係者の子孫が、馳せ参じてきているらしい。
 そして、熊沢天皇とこれらの人々の語るところによれば——彼、熊沢天皇事、寛動氏は決して敗戦の混乱に乗じて名乗り出た狂人天一坊の類ではなく、彼の先祖は、その歴史が証明するごとく、幾多の困難と生命の危機を切り抜けて、彼等の誇りである宝物と、貴い資料、そして血統を連綿と伝えて来たというのである。

歴史の修正
 その証拠には、熊沢氏が、厖大な資料を添えてマッカーサー司令部に歴史の修正方を懇願したのは、昭和二十年十一月十日付であった。
 翌十二月、名古屋市にある彼の茅屋に五人の米軍関係者が訪れ、六時間に渡る質疑応答があり、最後に軒下で乾杯して帰ったそうである。  二十一年一月のライフ紙には彼と家族の写真が掲載され「現天皇は歴史的事実の天皇であるまい」「熊沢は真の歴史的後継者であろう」と云った意味の記事が注目をひき、星条紙にもそれが報じられると、日本の新聞も遅ればせながら騒ぎ始めたのであった。
 熊沢氏が天皇のニックネームをつけられたのもこの頃で、熊沢天皇の名称がなんとしても滑稽であり、国民は猜疑と軽蔑の目でその記事を読み、完全なる天一坊と思い込んでしまった……
 と、いうのである。そこで彼は質問の矢を軽く放った。
『南帝さんは歴史の誤りを修正したいのが目的であると仰有いましたが、もし、貴方の言われるように改正されたら、一体、どんなことになるのですか』
『そうなれば今の天皇は……』
 と、言いかけて、熊沢氏は金壷眼をしょぼしょぼさせ、
『……とにかく、国民の自由に表明せられた多数の意志が、それを決定するでしょう』
 と、意味ありげに言った。
『しかし、そんな風に仰有ることは、少なくとも南帝さんにとって不利ではありませんか』
『それはどういう意味ですか』
『現皇室と国民の感情が、以下に親密であるか、貴方ご自身もご存知の筈です』
 熊沢氏の声は、急に熱を帯びてきた。
『……わたしは歴史上明らかに南朝の直系です。わたしの父は明治天皇にも、また大正天皇の時代にも度々上奏文を提出しました』
『それは身分上の保証についてですか……』
『それもあります。一度は皇族に、という議論が宮内省でも起きたようですが、総ては立ち消えになってしまったんです。しかし、皇族とか華族とか、そんな生易しいことで解決のできる問題じゃありませんからね……』
『そうしますと南帝さんは、本当の天皇になりたいと仰有るんですね!?』
 これは全く変な形容詞であるが、高杉はそれ以外に用いる言葉が浮かばなかった。
『総ては国民の意思です……』
 熊沢天皇はそう言って腕組みをした。度々そうするところを見るとこの人の癖であろう。

『南帝さんは、東京になにか御用でもあってお出でになったんですか』
 高杉はふと、話題を変えて訊ねてみた。熊沢氏を始め、いずれも公式の礼装であり、なにか重大な用件でもできたのかと考えられたからである。
『ああ、明日、芝の伊皿子で同士の人たちと会合することになっているのです。それから夜の汽車で福島県下に参ります。実は私の後援者たちが御殿を建ててくれましてね。菊花紋章をつけた、立派な家だそうですよ。いや全く有難いと思っています。招待を受けましたので、二週間ばかり保養に行ってきます』
 熊沢天皇は嬉しそうに応えた。
『駅に着かれますとね、団扇太鼓をもった日蓮宗の信者で明光会の会員が、三十人ばかりで南帝さんをお迎えすることになっているんですよ』
 こう付け足したのは、池永女官長である。熊沢天皇が法華宗とどんな関係にあるか、それは判らないにしても、福島県双葉郡新山町及び、熊町村大字夫沢付近に沢の字のつく地名が四十八ほどあって、この一円を大昔は「沢の邑」と言ったらしく、調査の結果熊沢天皇の先祖である熊野宮信稚王が、十年間その地に滞在の遺跡を確認するに足る史跡を発見したのであって、南朝の正統である熊沢氏を崇拝するものも、決して少なくないということであった。
『これを御覧下さい……』
 熊沢氏は突然上着のボタンをはずし、身に着けた真綿のチョッキを高杉に覗かした。
『これは、名古屋の市民病院にいる熱心な私に後援者が、寒い土地に行っても風邪を引かないようにと言ってね、贈ってくれたものです』
 そして、熊沢天皇は一寸眼をしばたたいた。
 元気そうに見えても、六十四歳になる熊沢天皇には、何より嬉しい真綿のチョッキに違いないのである。

  X X   X

 風が出てきたか、窓硝子が騒がしく音を立てた。高杉はそろそろ退却の仕草をした。
『もう宜しいですかな。他に質問はありませんか……』
 高杉が腰を浮かすと、熊沢天皇は間髪を入れずに問いかけてきた。
『はい……あまり遅くなると何ですから……』
 彼は、そして天皇をはじめ股肱の臣達に別れを告げ、建て付けの悪い引き戸をあけて、謁見の間を後にした。
 遠くで「こんな女に誰がした」というレコードが聞こえていた。

…………

 おしまいです。いかがでしたでしょうか。隔靴掻痒というか、インタビュアーのツッコミが弱すぎますね。まあしかし、四畳半の部屋に三人いるところで「謁見」なんぞしたら、息苦しくてかなわんかっただろうな、とは思いますが。
吾輩は天皇なり―熊沢天皇事件 (学研新書)

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