2016年1月25日月曜日

ただそれを「野蛮」であるということにしてしまう視線について

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 現今、天下の男色を談ずるものは、ややもすれば、閩(びん、福建省の町)と広(広東・広西)の地方とを語り草にする。しかし、呉・越から燕・雲に至るまで、この好みを知らないものはないのである。陶穀の『清異録』には、「京師(みやこ)の男子は、自分の体を自ら売りに出し、送り迎えして恬然としている」とのべている。とすれば、この風習が唐宋のころから、すでにあったことが知られよう。いま帝都には小唱があって、もっぱら士大夫の酒席の御用を勤めているが、おそらく官妓が禁じられたので、これを用いざるを得なかったのである。その初めはみな浙江の寧波・紹興の人であったが、近頃では半ばは臨清(山東省)のものである。だから南と北の小唱に分かれているが、群に随い隊を逐うという状態で、佳いものは少ないのである。たまに一人でもいると、風流な士大夫たちなら、力を尽くして招き寄せようとしないものはなく、国じゅうが狂ったようになるのである。……
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    以上は『五雑組』という、明代(万暦年間)に書かれたものの一部である。テーマは「男色」、小唱とは男娼を意味する。筆者は謝肇淛(しゃちょうせい)と言い、エリート官僚で詩人でもあった。この書は清代に禁書とされているが、この部分が問題になったというわけではない。
 中国において、男色は「断袖」と呼ばれ、禁欲的な儒教はそれを蛮風として遠ざけた。「断袖」とは前漢の哀帝と董賢のエピソードに由来している。帝の袖の上で眠る董賢を起こさぬよう、帝自らが袖を切って立ち上がった、との故事である。なお、董賢は哀帝の死後自害を強いられ、その後任が漢を一度滅ぼす王莽である。
 日本に来た朝鮮通信使も、当時の日本の「衆道」について、野蛮だと蔑むようなニュアンスで書き残している。

言葉と権力―
インドネシアの政治文化探求
    さて、ベネディクト・アンダーソンも、『言葉と権力』において、インドネシアの男色の説話についてふれている。
 それは『スラット・チュンティニ』という後期ジャワ文学の主要な作品であり、またそれは百科事典的な機能も有しているという。
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……その領主は、彼の妻たち、官吏、奴隷、取巻きの誰よりも、その一座、とりわけ女装して優雅に踊るヌルウィトリの技量に魅惑されてしまった。踊りの後その若い花形役者は、「完全に女性の愛を忘れた」(スペ・ランエニン・ワニト)という意味の領主と、一緒に寝るように熱心に誘われた。じっさいのところヌルウィトリは男性に愛されることに快楽を感じており、領主の愛撫に喜び、数日間毎朝お金と高価な衣服を送られることで報われた。……
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 この領主はその後、「入れられる」方も試してみて肛門が裂けてしまうのだが、それはともかく、問題は
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 十九世紀と二十世紀の植民地行政官や宣教師の「人類学的な」記述にある特徴的な月並みな主題の一つは、少年愛や男性同性愛に原住民が頑迷に耽溺することへの暗鬱かつ快楽調の言及である。
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 まあ、つまりはここでも「蛮風」として見下す視線があるわけで、女性的なかっこうで踊る男の子がもてはやされる様子を見て、「吐き気を催す」「胸糞が悪くなる」(ユリウス・ヤコブ)と書いていたりするわけである。
 
 言わばここに、オリエンタリズムにも似た植民地主義的な視線が現れており、しかもそれは現代においてもまだ有効だ、と信ずる人が大勢いるのである。

中国の"恥部"が暴露され、欧米は大フィーバー毛沢東は「周恩来が同性愛者である」ことを知っていた

 だそうだ。
 大フィーバーとかどういう意味でフィーバーしてるのか知らないが、この記事の筆者が期待するほどには「恥部」として広がることはないんじゃないのかね。
 それよりも共産党がそれを隠すのは、イデオロギーからか儒教文化の伝統からかわからないが、もしそうなら、まだ中国にも「中華」という冊封的な視線が残っているということなのだと思う。

 ついでに、ベネディクト・アンダーソンのもう一つの主著『想像の共同体』に、タイのラーマ六世(註:プミポン前国王は九世)が同性愛者だったと書かれているのだが、他の書では見たことがない。タイは不敬罪があって、それは活字化されているはずがないので、ベネディクト・アンダーソンがどこでその情報を得たのか、と不思議に思われる。彼はタイについても深く研究しているので、どこからか耳にしたのだろうけれど。
 まあ、現代のタイなら、かえって王様の人気が出そうな気もするが。

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

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