2016年1月11日月曜日

小麦といかさま師とフランクフルト学派

Herman Weil
    一八八八年、ヒトラーの生まれる一年前、一人の若いユダヤ系ドイツ人がアルゼンチンを訪れる。
 名をヘルマン・ヴァイルという。彼はそこで初めて、地平線の向うまで続く広大な小麦畑を目にした。生地シュタインスフェルトにおいて、遺産分割でバラバラになった畑しか知らなかった彼に、その光景は深い感動をもたらした。案内したアルゼンチン人は、興奮を隠そうとしない若者に向けて、何かの歴史絵巻を説くかのようにして語った。
「ヘルマン、これが我々の軍隊なのだよ。この麦の穂が。これで我々は戦うのだ」

 まるで映画のファースト・シーンのようなエピソードだ。
 この時、アルゼンチンは金本位制を採用し、世界経済に打って出ていた。(そうしたことは以前「背中合わせのタンゴ」とその「つづき」のエントリーで触れた)
 ヘルマン・ヴァイルは、アルゼンチンに拠点を置く穀物商となり、巨万の富を築いた。

 やがて、第一次世界大戦が起きた。
 ヘルマンは積極的に小麦をドイツへと売った。この世界大戦はアルゼンチン経済を大いに潤し、ヘルマンもまた富をさらに積み重ねた。
 しかし、ヘルマンはただ儲けるばかりでなく、愛国者として、海軍軍令部の顧問として、積極的に政府に「助言」した。ルーデンドルフにも、モルトケにも、ヴィルヘルム二世にも。報告書の中で彼は独自の情勢分析を展開してみせた。
「英仏の協商側は穀物供給が不十分なため、早晩崩壊するだろう」
 はずれ。
「イギリスは六週間すら持ちこたえられないだろう」
 はずれ。
「それ以外の協商諸国すらも、食料品の逼迫によって数ヶ月以内に革命が起きるだろう」
 まったくはずれ。
 当時帝国総理府上奏顧問官だったクルト・リーツラーは、
Kurt Riezler
ヘルマン・ヴァイルについて、「いかさま師」だと一九一七年六月九日付けの日記に書き付けている。

 一次大戦が終ると、ドイツはハイパーインフレに襲われた。
 しかし、アルゼンチンに拠点を持ち、穀物を主に扱っていたヘルマン・ヴァイルはほとんど痛手を受けなかった。
Walter Benjamin
    このように、ユダヤ系商人が国境を越えてドルで資産を蓄えることについて、多くのドイツ人は苦い思いをしたことだろう。だが、同じくユダヤ商人であり、大戦前はドイツで十指に入る資産家だったベンヤミン家は、このインフレで見る影もなく没落した。
  そのベンヤミン家の息子がヴァルター・ベンヤミンである。

Felix Weil
    さて、ヘルマン・ヴァイルにも一粒種の息子がいた。フェリックスという名で、フランクフルト大学で政治学の博士号を得、あろうことかマルクスに傾倒していた。
 彼は父親に「反ユダヤ主義を分析する研究所を作りたい」と言って金を出させ、マルクス主義についての専門的研究機関を設立する。彼はそれをただ「社会研究所」と呼んだ。
社会研究所
    ここに多くの優秀な頭脳が集まった。
 初代所長であり、フェリックスの友人でもあるマックス・ホルクハイマー、そしてテオドール・アドルノヘルベルト・マルクーゼ 、などなど。彼らの多くは、富裕なユダヤ人の子弟であった。そんなところへ、落魄したベンヤミンも深いつながりを持つようになる。さらに、ヘルマン・ヴァイルを「いかさま師」と呼んだクルト・リーツラーは、フランクフルト大学理事長として、この研究所のもっとも好意的な協力者となった。

 さてさて、かくしてフランクフルトは、かつてマックス・ヴェーバーをいただいたハイデルベルクを追い越して、社会学の中心地となっていった。
 このようなことになったのも、元を質せば大戦後に帰国したヘルマン・ヴァイルが、フランクフルトにその居を定めたことに由来する。
 ヘルマンがフランクフルトにやってきたのは偶然ではない。
 それは彼が梅毒にかかっていたからだ。
 当時梅毒の特効薬とされたサルバルサンを発明したパウル・エーリッヒが、フランクフルトに研究拠点を置いていたのである。
 なお、この「社会研究所」の面々が「フランクフルト学派」と呼ばれるようになるのは、彼らがナチスに追い出され、アメリカに渡ってからのことである。


フランクフルト学派 -
ホルクハイマー、アドルノから
21世紀の「批判理論」へ (中公新書)

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