2015年12月28日月曜日

今年のまとまらないまとめ

 当店は明日から来年五日まで休業となります。
 それにともない、このブログの更新もお休みします。

 いろいろとあったようななかったような、早かったような遅かったような、そんな一年でありました。
 このブログも通常運転のまま。アクセスのめだった記事とかはとりたててないので、その辺のことは語らずにおきましょう。

2015年12月27日日曜日

ライ麦畑と関係ないけどなんでそんなにナチスが好きなんだ

 昨日の続きなんだけど、ちょっとライ麦とは関係なくなってる。まとまりなくてすんません。

 ドイツのハイパーインフレというやつは、今もって謎が多い。「ユダヤの陰謀」だとかいうアホもまだ生き残っていたりする。あと、わりと多い勘違いが、「ヒトラーがハイパーインフレを解決したので政権を握ることが出来た」というやつ。これ、ちょっと歴史を調べれば、ぜーんぜん違うことがわかる。だいたいハイパーインフレが解決してマルクが曲がりなりにも大人しくなったとき、ヒトラーはまだオーストリア国籍だったのだ。
 このようにして、しょーもない「実はナチスすげえ」神話ってのは、二一世紀においてもタムシのごとくはびこっていて、けっこうな社会的地位にある人ですら、「ナチスは戦争と虐殺はしたが、経済政策は成功した」と信じていたりする。困ったもんだ。
ウィキペディアの記述
    おそらくその流れなんだろうけど、「レンテンマルク」を構想してハイパーインフレを解決したのは、ヒトラーに協力したヒャマル・シャハトだ、という「伝説」がある。
 ウィキペディアあたりにもそう書いてあって頭が痛いのだが、実際のレンテンマルクの構想者はヘルフェリッヒであり、シャハトはむしろその案に強く反対していたのだ。
 一九二三年十月六日付けの書簡において、シャハトはときの首相シュトレーゼマンに向けてこのように論難している。
「健全通貨はただ金本位通貨のみである。その他の通貨は特に我が国のような経済状況の下では、再び崩壊に向う」
「まだ終りの見えない財政赤字を通貨の発行でカバーすることは財政政策のもっとも重大な誤り」
 などなど。

2015年12月26日土曜日

ライ麦畑でつかまるものは?

 ライ麦というものは、あまり日本人にはなじみがない。気候風土が合わないらしく、昔から作られていないのだ。
 ライ麦というやつは、育つと1メートルから3メートルくらいになるそうで、その畑に人が入り込むと姿が見えなくなってしまう。そこでライ麦畑というのは、ちゅっちゅちゅっちゅする場所、ということになっていたりする。ドリフの「誰かさんとと誰かさんが麦畑」というのはライ麦畑のことで、この歌は元々イギリスの猥歌なのだ。それが名作『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルの元になっている、ということは以前エントリーに書いた

2015年12月25日金曜日

クリスマスだからというわけではないけれどたまには近況報告

 先週、カゼを引いて以来、頭がぼーっとしてつらい。
 鼻水はおさまったのだが、脳細胞にオブラートが張り付いたような感覚がとれない。そのせいか、やたらと眠い。

2015年12月10日木曜日

ストラヴィンスキーのドキュメンタリーを見たらなんとなく長生きできそうな気がしたりした

ストラヴィンスキー:詩編交響曲,
組曲「兵士の物語」自作自演【中古LP】

    まだテレビがチデジカする前、ストラヴィンスキーのドキュメンタリーをやってたのでだらだら見てたことがある。
 かなり昔にカナダのテレビ局が作ったもので、白黒の画像だった。
 画面ではすっかりはげ上がったストラヴィンスキーが、サングラスをかけて指揮棒を振っていた。つい忘れがちだが、彼は優秀な指揮者でもあったのだ。

2015年12月9日水曜日

『ノーベル賞経済学者の大罪』と裸の女王様

ノーベル賞経済学者の大罪
 (ちくま学芸文庫)
ノーベル賞経済学者の大罪』という刺激的な本がある。中身の小見出しのタイトルもなかなかステキだ。

…………
第1章:お砂場遊びの坊やたち
第2章:統計的有意性はお呼びでない
第3章:黒板経済学の不毛
第4章:社会工学の思い上がり
第5章:新しく謙虚なブルジョアの経済学
補論:経済学の秘められた罪

…………
 ……とまあ、どっかの夕刊紙みたいな見出しが並んでいる。
 が、内容のほうはごく真っ当な現代経済学の入門書で、ちょっとひねくれた人が経済学の裏口から入るのにちょうど良い、そんな感じの本だ。経済学そのものを根底から問い直そう、などというような野心的なものではなく、ほっといたらずいぶん薄汚れてしまったのでお洗濯しましょ、といったところか。

 でも読んでいると、その「お洗濯」から服のほつれややぶれが目につき、経済学というものについてちょっと考え直してみたくなったりもする。
 著者はそれについて、指し示すだけで黙ってる。
「ほら、見れば分かるでしょ」と言いたげに、口を閉ざして微笑んでいる。

2015年12月3日木曜日

突如としてそれまでの「日常」が失われたとしても『あたしンち』はどこまでも日常的であろうとしたこと

来て来てあたしンち
    今さらながら、『あたしンち』というマンガについて、少しばかり書いてみたいと思う。きっと作者はこんな風に生真面目に語られることについて、「やーめーてー」と叫びつつ身をよじって嫌がるんじゃないかと思うが、それでも書いてしまうのがブログであり、インターネットというものなのだ。ネットって広大だね、無駄に。
 で、この現代版サザエさんのように言われるマンガは、サザエさんと同じく新聞を連載の舞台としながら、サザエさんのような社会風刺的なことはほとんどしていない。というか、意図的に避けていたように思われる。
 そんな風刺なんてダサいことをしなくても、社会の諸々の事象はすべて「日常」の中に、噛み砕かれ消化され凝縮されて顕れるのだから、その「日常」を切り取って描き出せば、風刺なんかよりもずっと適確に社会を描くことができる、ということだったんじゃなかろうか。
 そんな「日常」にも、どうにも噛み砕けず消化できないものが現れてしまうことがあるわけで、原発事故などはどうしても触れないではいられなかったようだ。直接的にわかりやすいところで、主人公のみかんが雑誌のインタビューのようなものに応えて、望むのは「原発のない日本?」と言っていたりする。
 しかし、『あたしンち』が連載されているのは、原発維持を社論とする読売新聞である。マンガの内容まで新聞社が口出ししてくるとは思わないが、熱心な読者の中には違和感を覚える人もいるだろう。
 原発事故を無視して「日常」を描けばそれがウソ臭くなり、なんとかエピソードに反映させても、連載される媒体によってウソ臭くされてしまう。そうしたアンビバレンツな状況にあったわけだ。