2015年8月16日日曜日

無はリズムの「無」もしくは勅使川原三郎「アブソリュート・ゼロ」

ホドラー、emition


 もう一度これを貼ってしまおう。
 今年始めころのエントリーであつかった、フェルディナント・ホドラーによる“emition"(英語だとemotion)である。
 ホドラーは人が並び、ときに踊る姿によって「生命の律動」を描き出した。それは「良きリズム」(ユーリズミックス、またはオイリュトミー)と呼ばれた。
 その下に「無」の画像を並べたのは、まるでこの絵から「無」の漢字が象形されたかのように見えるからだ。
 そして、「無」という漢字は、「舞」という漢字と同じ根源をもつ。

…………
【無】もと象形。人の舞う形で、舞の初文。卜文に無を舞雩〈ぶう〉(雨乞いの祭)の字に用い、ときに雨に従う形に作る。
…………
 白川静『字通

 問題は漢字学の泰斗白川静先生が、この漢字をこの意味で用いるのは「誤伝」としていることである。
 しかし、あるリズムの中で身体を動かすこと、または身体を動かすことでリスムを作り出すことは、「からだ」というものをいったん無くすことにつながるように思う。
 確かに数千年前の人間が、そのような形而上的な認識を身体の運動から引き出せたとは、さすがに考えづらい。
 だが、リズムの中で本来の意味を失うこと、それは身体に限らないものでもあったようにも思う、のだが。
 
   先日、荻窪のAPPARATUSで勅使川原三郎の『アブソリュート・ゼロ』を見た。
 絶対零度と名付けられたダンスを見ながら、また「無」とダンス、「無」とリズムについて考えてみたくなった。
 勅使川原三郎のダンスには、いろいろなものが「無」い
 わかりやすさが「無」い。
 ストーリーが「無」い。
 セクシュアリティが「無」い。
 そして身体が「無」い。
「無」い、というのは、そこに日常的に付与され、流通するところの「意味」というものが「無」い、ということだ。

 舞台の上で、肉体は日常的に使用される意味を失い、また新たに組み替えられて動き出す。
 その時、「無」は本来の意味を取り戻し、踊りだすのだ。

 
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