2015年6月17日水曜日

ゴドーを待つことがわからない時代になってきたけれど勅使川原三郎『ゴドーを待ちながら』の感想



 待つ身は辛い。それは蜻蛉日記を引かずとも、誰もが知っている、はずである。
 しかし最近は文明の利器、スマホがある。ちょっと遅れても連絡がつく。これでゲームしてればたちまちに時間がつぶれる。待たせた方が「ごめん、待った?」と声をかけても、「ちょっと切りのいいとこまで待って」と逆に待たされたりする。そのうち「手持ち無沙汰」というのが死語になりそうだ。

「人は待つことで『女性化』する」というのはロラン・バルトのせりふだ。
ロラン・バルト、
恋愛のディスクール・断章
    戦後、女は待つことなく待たせるようになった、と書いたのは確か青木雨彦のコラムだったと思うが、それでも見合いの席なんかは男性はちょっと遅れていくのが「礼儀」、などと昭和三十年代くらいの冠婚葬祭本には書いてあったりする。
 しかし、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』では、「女性」はいっさい出てこない。
 女が出てこない演劇、ということで、なぜか重犯罪刑務所から慰問を依頼されたりもする。
ゴドーを待ちながら 
(白水Uブックス)
    が、しかし、上演するたびに観客たちを待ちぼうけを喰らった夏の子供のような足取りで家路につかせたこの不条理劇に対して、刑務所の囚人たちはすばらしい反応を見せた。
 劇が終るや看守の制止も聞かず拍手をし、歓声をあげ、房に帰る途中も劇について語ってやまなかった。
「ゴドーってのは誰だ」
「俺は思うね、ゴドーってのは娑婆だ」
「いや、俺は女だと思う」
 そう、囚人たちこそが「待つ」ことの不条理性(それと女性性も?)を理解していたのだ。

 さて、勅使川原三郎の『ゴドーを待ちながら』は、勅使川原三郎が独りで舞って(待って)いた。ウラジミールとエストラゴンは声だけが聞こえ、どこかの若手落語家が読んでいるのかと思ったら、勅使川原三郎自身が録音したものだった。
 観客は舞台奥のゴドーがダンスするのではと、ずっと待っていた。そしてやっぱり、ゴドーは最後までその姿を見せなかった。

 「ゴドーは来ない」
 だがしかし、今は文明の利器スマホがある。ゴドーのメアドもラインもわからないなら、ゲームでもしながら待つことができる。文明の利器により、「待つ」ことの不条理から遠ざかる人々は、果たして来る「もの」がその姿を現さずとも、待ち続けることをどう感じるのだろうか。


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