2015年3月4日水曜日

ユダヤ人はどこにいるか?もしくは映画『ショアー』を観て思ったこと

「なぜ微笑むのですか?」
 話の途中に挟まれた質問に、男は応えない。
 一瞬とまどったように視線を外し、また元通りインタビューは続く。
 思わずインタビュアーがこの問いを口にした気持ちはわかる。男が今話しているのは、四十万人が殺されたヘウムノ絶滅収容所の思い出だからだ。
 男の名はモルデハイ・ポドフレブニク。
 収容所で生き残った二人のうちの一人だ。あのアイヒマン裁判にも、検察側証人として出廷している。
 インタビューしているのは、この映画『ショアーSHOAH』を作ったクロード・ランズマン。
 映画の冒頭は、もう一人の生き残りであるシモン・スレブルニクの物語が文字で流れる。次に彼がかつてナチ将校とともに渡った川を、その時歌ったと同じ民謡を口ずさみながら船に乗ってゆく。歌の上手な少年だった彼は、時々そうして外に連れ出されたという。
 そして、シモン・スレブルニクも常ににこやかだ。
 彼ら二人に驚かされるのは、そのたたずまいが実に「普通」だということだ。町の中を歩けば、たちまち人ごみにまぎれてしまうだろう。安っぽい劇画に毒された人間が想像するような、血なまぐさいオーラなど微塵も発してはいない。すぐ隣に座っていたとしても、何も違和感を覚えそうにない。そうと言われなければ、殺された四十万人のうちの生き残りだとは、まったくわからないだろう。
 教会の祭の中、シモン・スレブルニクは人々に囲まれる。当時を記憶する人も多い。変にとがった眼鏡をかけた男が、興奮してカメラの前でまくしたてる。
「ユダヤ人たちが集められているところを見た。その中でラビが同胞たちに説いていた。自分たちはイエス・キリストを罪なくして処刑した。だから、これから何が起ころうと甘んじて受けよう、と」云々。だいたいこのような内容だ。
 眼鏡の男の演説はユダヤ人虐殺について、その罪をユダヤ人の側にかぶせようとしているように聞こえた。
 だが、それでも、シモン・スレブルニクは終始にこやかだった。

 今、日本にユダヤ人はどれほどいるのだろう。どれだけの日本人が彼らと親しくしているだろう。ユダヤ人など、見たこともない人も多いだろう日本で、この『ショアーSHOAH』が上映されることに、どれほどの切実さがあるのだろう。
 元同盟国として?
 


 ユダヤ人差別というものについて、ナチスの独創性はまったくなかった。唯一独創的だったのは、「最終解決」という手段だった、と映画は教えてくれる。
 それはクリスタル・ナハトのような騒々しい暴力とは反対に、まったく合理的効率的科学的に、かつ日常的に、ごく「普通」に行なわれたのだ。
 たとえば、ユダヤ人を集め、貨車に詰め込んで移送する際、ドイツ国鉄には「団体料金」が支払われた。そのままの運賃では高すぎるので、節約したのである。小児は半額、幼児は無料とされた。
 それは「普通」の旅行会社を通して申し込まれ、ドイツ国鉄は「普通」に普段通りの料金でそれを受け付けた。
 最終解決について、ドイツ政府からは予算がついていない。すべての費用はユダヤ人たちから巻き上げた資産でまかなわれた。
 当時国鉄でダイヤ編成課長をしていた男は、何度も繰り返す。
「まったく気づかなかった」
 ランズマンが何度問うても、答えは同じだ。
 気づいていないはずがない。だが、それは日常のことだったし、ちょっとやりすごせば、ごく「普通」に暮らしていくことができたのだ。


 どこかで、大勢の人間が死んでいて、それに薄々気づきながらも、誰も振り向こうとすらしない。死んでいる人間の中に、もしかすると以前親しくした人や、身近な人も含まれているかもしれないのに。
 それはどのような状況だろうか。
 たとえば、日本では大勢の人間が自殺する。どのくらい大勢かというと、「年間で三万人を切った」ことがニュースになるくらいだ。もし戦場でそれだけの人数が死んだら、どれほどの騒ぎになるだろう。
 しかしそれは、ごく「普通」のこととして、受け止められている。
 人々は電車が「人身事故」で止まっても、いまいましげに舌打ちするだけだ。
 確かに彼らは殺されているわけではない。だが、この社会の状況がそれを促し、かつそれを隠している。

 ヘウムノ絶滅収容所の生き残り二名、その普通すぎるほど普通なたたずまいは、とてつもないことがごく「普通」の生活に載せて行なわれることがある、ということを教えてくれる。
「普通」というものは、目に見える暴力と違って、なかなかそれを指弾しづらい。
 それは何十年も前に起きた過去の事柄ではない。ただユダヤ人だけの問題というのでもない。
 これからも、ごく「普通」に起こる可能性があるのだ。


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