2015年3月27日金曜日

人を殴ると心も身体もぽかぽかするよね?もしくは『暴力のオントロギー」についてのつづき

現代思想を読む事典 
(講談社現代新書)
現代思想を読む事典』というのが講談社現代新書から出ている。初版は1988年で、ニューアカデミスムとかポストモダンとかが、まだその輝きを失っていなかった頃だ。
 今村仁司編、ということだが、執筆者は五十名を越え、その中には廣松渉鷲田清一丸山圭三郎、そして内田樹なんて名前もあったりする。
 この中にはもちろん、「暴力」という項目がある。
 で、また当然のように今村仁司がそこを執筆している。
 その中身は『暴力のオントロギー』の内容紹介のようなもので、参考文献の欄には自著の『暴力の----』と、これまた自著の『排除の構造』しか載せていない。
 なんつーか、その、「もんくあっか?ああ?」という声が聞こえてきそうだ。ちょっと抜き出してみよう。

…………
……誰もが知りかつ実行する暴力的行為、人類史の前景をほとんど占めている暴力的現実についての理論的考察はほとんどない。…………「暴力の知」のみが理性的反省の圏内から「暴力的に」排除されているのだ。
暴力論〈上〉
今村仁司・塚原史訳
 (岩波文庫)
…………
暴力論〈下〉
今村仁司・塚原史訳 
(岩波文庫)
    あ、あのー、ソレルの『暴力論』てありましたよね。今村先生、あとで新訳お出しになったじゃないですか。(つい敬語)や、やだなあー。
 そりゃあ、ソレルの暴力の分析は、階級闘争を正当化するためのものだけど……
…………
 この仕事を実行する場合、暴力の通俗的イメージを投げ棄てる必要がある。多くの人びとは「物理的・肉体的暴力」のイメージで満足している。しかしそれは暴力現象の一部分あるいは氷山の一角にすぎない。暴力は人間が存在すること自体に伴う何ものかであり、より正確に言えば、人と人との関係、人と自然との関係に内在する特異な力である。
…………
 うはっ、いきなり切り込んでくるなあ。この論の進め方こそ「暴力的」なんじゃないか知らん。
…………
 個物(物も個人もふくむ)が「そこに—ある」ことは、すでにある場所からの特定の場所をもぎとることである。…………個物の生成は原初的暴力なしには不可能である。…………個物と個物の原初的な関係は相互排除、相互敵対関係である。…………万物(あらゆる個人)が発揮する他者排除作用をひとつの方向に収斂させる、あるいはひとつの個物に排除作用を集中するとき、多様な排除作用は一様化される。秩序の発生のメカニズムは、原理上、ただひとつの個物が排除されるだけでよい。これを第三項排除とよぶ。(文中ボールドは原文による)
…………
 まあ、第三項排除とかって、要するに「生け贄」っすね。
 この「生け贄」から暴力の痕跡がぬぐわれると、それは聖別化され、儀礼の中心となり、権力の担い手となる、という。
 前近代的部族の「族長」が何の力も持ってない、という事例は人類学でたくさん報告されているようなので、そこら辺からこのような考察になる。
…………
 思想の組織化、経済の組織化、政治の組織化等々もこの排除の力によって駆動される。例えば、中心や土台を求め、この原点からすべてを同一化し組織づける形而上学的体系にも、排除された第三項としても貨幣・資本を中心に経済体系を組織化する資本主義経済の中にも、暴力としての不可視の第三項排除が貫徹している。人間は暴力を合理化し抑制する装置を作った(それが文化である)が、同時にこの文化装置は危機に出会うたびにしばしば物理的暴力を拡大再生産する。
…………
 うーん、ここであわてて呑み込んじゃうとノドにつかえそうなので、ちょっと立ち止まって「生け贄」というものについて考えてみたい。

 ということで、また次回に

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