2015年1月7日水曜日

「無」のダンスもしくはフェルディナント・ホドラーとたまごサンド


 冬休み最期の日、娘が「たまごサンドを食べたい!」と言い出した。図書館でたまたま手に取った『謎のあの店』という本に載っていたのだ。
 調べてみると谷中の方にある結構有名な店のメニューで、上野の公園から歩いて十分ほどの距離にある。なので、ついでと言っちゃあ何だが、国立西洋美術館へ『フェルディナント・ホドラー展』を観に行くことにした。
 
 ホドラーという画家については、今まであまりよく知らなかった。画集などで目にしたことはあったが、だいたい「象徴派」というくくりで、自分の脳内では「セガンティーニその他」の引き出しにつっこんでそのまんまになっていた。
 しかし、今回たまたま展覧会に足を運び、己の不明を恥じることとなった。

 ホドラーはアルプスを描いた一連の風景画の他に、人物を並べることで「リズム」を象徴した絵を多く描いている。
オイリュトミー(ユーリズミックス)(素晴らしいリズムという意味)
それらの絵を目にしたとたん、フィリップ・グラスの『ダンス』が脳内を巡り出し、それは美術館の外に出てもずっと止まらなかった。

 ホドラーの絵画は「死」の影につきまとわれている。それは若い頃、両親兄弟をすべて結核で喪った経験から来ている、とされている。
「死」の落とす影に刻まれた「生」は、そこに「リズム」を顕す。人々はただそこにあるだけでダンスするかのように、「リズム」を刻むこととなる。
 繰り返される生と死のリズムによって刻まれたダンスとは、すなわち「無」を意味するのではないか。

 白川静『字通』から引いてみよう。
…………
【無】もと象形。人の舞う形で、舞の初文。卜文に無を舞雩〈ぶう〉(雨乞いの祭)の字に用い、ときに雨に従う形に作る。
…………
 そして、「無」を有無の無の意味に用いるのは誤伝である、と白川静は書く。
 しかし、ホドラーの絵を見るうち、「果たしてそうだろうか」という疑問がわいてきてしまった。
 だって、ほら、
emotion



    まるでホドラーの絵画を元に、「無」が象形されたかのようだ。
「無」とは、ただなんにもないということではなく、あらゆるものを生み出す力を持った場のようなものだ、と禅宗では言っている。
 生命の律動(リズム)がそれを表したとして、何の不思議があるだろう。
 ホドラーに漢字の知識があったとは思えないので、まったく違った世界から究極の地点で共通するものを示した、ということになるのではないか。
 これは並大抵のことではない。

 やや興奮気味に美術館を出ると、本来の目的である「たまごサンド」を求めて娘と歩き出した。
  ほどなくして目的地のカヤバコーヒーにたどり着き(右画像)、今回の動機となった「たまごサンド」にありつくことができた。
 たまごサンドよ、ありがとう。
たまごサンド



Ferdinand Hodler: 161 Masterpieces (Annotated Masterpieces Book 56) (English Edition)

ダンス第1番~第5番

0 件のコメント:

コメントを投稿