2015年1月12日月曜日

おとなになるってどんなこと?

 言葉が暴力になるのなら、それに暴力でお返しして何が悪いだろう?
 と考える人たちは意外と沢山いて、だいたいの場合口下手だ。そして、真面目で、正直であったりもする。そうした人たちは、言葉の代わりに暴力を使う。それを押しとどめられるのは、神様だけだ。神様はおっしゃる「復讐するは我にあり」(ロマ書 )と。俺がやるからお前はするな。仕返しなんぞ、不信心もののすることだ。
 どうやら神様というものは、信じれば信じるほど、その教えに背きたくなるらしい。ムハンマドだって多神教徒たちへの復讐をさせなかったんだけどね。

 フランスでは漫画家たちが不信心な正直者に殺された。
 そのことについて、ガーディアンサイモン・ジェンキンスが語った。
Charlie Hebdo: Now is the time to uphold freedoms and not give in to fear
>That is why the most effective response is to meet terrorism on its own terms. It is to refuse to be terrified. It is not to show fear, not to overreact, not to over-publicise the aftermath. It is to treat each event as a passing accident of horror, and leave the perpetrator devoid of further satisfaction. That is the only way to defeat terrorism.
「もっとも効果的なのはテロリスムに自分なりのやり方で対峙すること、てわけだ。ビビるのはやめよう。恐がったり騒いだりわめき散らして余波を拡げたりしないようにしよう。そういうのは昔の惨事と同じく扱って、犯人たちに達成感を与えないようにしよう。これがテロリスムをたたきのめすただ一つのやり方だ」

 それに対して、ラカン派の精神分析学者で哲学者のスラヴォイ・ジジェクが文句を付けた。
Slavoj Žižek on the Charlie Hebdo massacre: Are the worst really full of passionate intensity?
http://www.newstatesman.com/world-affairs/2015/01/slavoj-i-ek-charlie-hebdo-massacre-are-worst-really-full-passionate-intensity

>the attack on Charlie Hebdo was not a mere “passing accident of horror”
「シャルリー・エブドへの攻撃は『昔の惨事』(と同じような)もんじゃなかった」

 そんなのはニーチェの言うところのニヒリズムであって、末人der letzte Menschのすることだ、と。
 末人てのは『ツァラトゥストラ』で語られる、 有名な「超人Übermensch」の正反対の存在だ。「最期の人」と訳されることもある。
 末人は、苦しみから逃げ、隣人を愛し、健康で、不平を言わず、石橋を叩いて渡って石にけつまづく。お利口さんだから、何が起きてもそれを嘲笑する。喧嘩をしてもすぐ仲直りできる。
 そして末人は言う。「幸せ見ーっけた!」

 どうもニーチェの言う末人とは、世に言う「おとな」のことのようだ。
 今ならきっと『超訳 ニーチェの言葉』を愛読してる、と付け足せるだろう。

 今日は成人の日。日本のあちこちで、新たな「おとな」たちが誕生する。
 ニーチェが嫌悪したものは、今の日本にこそ色濃くあるようだ。
 それはもちろん、私もたっぷりと持っている。
 そして、ニヒリズムの果てに大いなる正午が到来し、超人が顕現することは、どうやらなさそうだな、とも思っている。

 地球の裏側で起きたテロについて、かつての「赤報隊」に思いを馳せることもなく、人々は朝日新聞を叩きつつ、メディアの幹部が総理と会食することについて、口の端に上らせることすらしない。
 それが「おとな」というものだからだ。


ニーチェ全集〈9〉
ツァラトゥストラ 上
 (ちくま学芸文庫)
ニーチェ全集〈10〉
ツァラトゥストラ 下 
(ちくま学芸文庫)

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