2014年12月1日月曜日

忠臣蔵って……なんだったんだっけ……

 まっすぐ突っ走るのもつまらないので、ちょっと寄り道をしよう。
 討入りが起きるのと前後して、桂昌院が従一位に登っている。桂昌院というのは五代将軍徳川綱吉の生母で、「生類憐みの令」を跡継ぎに恵まれない綱吉にやらせた、などという俗説がある。この説は近年否定され、それに合わせて「生類憐みの令」も、悪法どころかこれまでの社会の有り様を改善する画期的な法令であった、との評価する人もいる。
 まあそれはともかく、この桂昌院という人、一応武家の娘にはなっているが、元はどこぞの町娘である、との噂が生前から絶えなかった。それは、この当時の「ある風潮」からきている。

 母親だけでなく、まず綱吉の妻、所謂御台所の鷹司信子というのが、左大臣鷹司教平の娘である。この当時、大名が公家の娘を妻として迎えるのが流行しており、それとともに、公家の習慣が武家に持ち込まれることも多くなった。それは将軍家において例外ではなく、というより、とみに顕著であった。大奥においても、本物の勾当内侍(こうとうのないし)を呼び寄せて大典侍(おおすけ)とし、また大納言の養女を新典侍(しんすけ)として加えたりしている。大典侍・新典侍ともに、元々は禁裏の女官の最高位の名称であり、そのまま京都の風を大奥に持ち込んだような具合である。

政談 (岩波文庫)
     荻生徂徠『政談』にこう書く。
「大名の妻ほど埒もなき者はなし」
 家宰のことなどなにもせず、昼までぐうぐう寝ている。そのくせやたらとえらそうで、「妻の親元の家の格を夫の家へ持ち行きて、奢を恣にする」ものだから、「夫は妻を主君の如くあいしらい」などという具合になってくる。
 そしてやがては、妻だけでなく妾にもその風が及び、武士が公家の娘を囲い、また妾が男子を産めばその妾を正妻として元の妻を追い出したり、でなくとも「お部屋様」と呼んで特別扱いにした。
 しかし、この「公家の娘」が本当に公家の娘であればまだいいのだが、ときにはそこいらの遊女を公家が養女として、武家の妾に送り込んだりしていた。
 正親町町子というのがそれに当たるとされる。
 町子は権大納言正親町実豊の娘で、柳沢吉保の側室となった。吉保は徂徠の主君である。
 しかし町子は『柳営婦女伝系』において、「倡来の子」とされている。倡来とは倡妓のことで、その生まれは正親町どころか実の父も定かではない(実父不知云誰)、という。
 
 つまり綱吉の母、桂昌院の生まれがただの町娘だと噂されたのは、ふってわいたようなことではなく、他に例があってのことなのだ。
 徂徠はこのような風潮を身分の混乱だと嘆いたが、その実際は異文化の侵入である。
 公家の娘が殿様のところにくれば、それに連れらて故実に詳しい付き人もやってくる。都のまだるっこしい風俗が、江戸へと持ち込まれることとなる。
 桂昌院の元の身分はどうあれ、京都育ちであることは確かだ。そのミヤコで育ったお嬢さんが、自分の息子である将軍に、坊主のお告げじゃと耳打ちして始まったのが「生類憐みの令」なんてまだるっこしい法令なのだ、というわけである。

「生類憐みの令」は、動物だけではなく、弱い人間の保護も定められている。捨て子を拾ったら皆で育てよ、病人や老人をみだりに捨ててはならん、などである。
 戦国の気風が未だ消えやらぬ江戸において、学問好きの綱吉は「文治」の政治を目指した。こういう転換期にあって、その法令が過剰に悪法と揶揄されるのは仕方ないことなのだろう。

 そんな中、赤穂浪士による討ち入りが起きた。
 そして戦国の気風にノスタルジアを感じる人たちは、オラウータンのように手を叩いてこの「壮挙」を讃えたのであった。



 

0 件のコメント:

コメントを投稿