2014年12月7日日曜日

【あーとうとう日本語訳が発売なんだねえ編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら


     あー、とうとう発売なんだなあ、日本語訳。いっしょけんめい英訳読んでたオレの苦労はいったい……
 とか嘆いててもしょうがないんだけど、これはこれでいろいろべんきょになったんで、まあよしとするということで、無理矢理自分を納得させてしまおう。

 んで、この本について結婚式の祝辞のようにながながだらだらと書き連ねてしまったのは、読んでるうちにいろいろ疑問がわいてきて、その疑問てのがどうやら今まで誰もまともに考えたことがないような問題に思えたからだ。簡単に個条書きにすると、
・「財産」とは何か
・「財産」はいつ(暴)力と根源を同じくするのか
・人間は「財産」を持たずに人間になることができないのはなぜか
21世紀の資本(邦訳)
えーと、私有財産が諸悪の根源になってる、という勘違いはプラトンの昔からずーーっと、ずずずいーーーっと存在していて、そうじゃなくて問題は「不必要な」格差なんだけど、なぜかそういうことをちゃんと語る人は少なかった。あ、ピケティだってちゃんと語ってないけどね。
 だいたい「格差の何が悪いの?」という下世話な開き直りに対して、お行儀のいい経済学者サマは今イチ有効な解答ができていない。
 それには歴史を、とりわけキリスト教や儒教という分厚い倫理のベールがかかってない日本の歴史を、「財産」の面から紐解いた方が良いんじゃないかな、と考えていろいろと書いてみたりした。

【予告編】

 我ながら良く書いたなー。
 書くごとにテーマがでかくなって来るのがわかって、翻訳も出ることだしといったんは切り上げたけど、これからも機会があるごとに取り上げてみたい。
 で、以下続きのようなそんなようなものを。 

 原初の「財産」てのは土地のことだ。それはルソーの『人間不平等起原論』を見てもそう書かれている。
 で、ルソーは
…………
土地に囲いをして「これは俺のものだ」ということを思いつき、それを信じるほど単純な人々を見つけた最初のもの……
…………
 ということを言うんだけど、その人々が「単純」でなかった場合、どうすんだろう?そこら辺、ツッコミが甘いね、ルソー。
 そんなときはおそらく、というか確実に、「カミ」を利用した。
 それまで自然の驚異を擬人化したものに過ぎなかった「カミ」は、そのとき世界の創造主として語られることになった。超越的次元から世界を見下ろすそれは、もはや妖精とか妖怪とかに近いようなアニミズムっぽいものではなかった。
 土地と、それに伴う「生産」を、カミによって保証されるということが、そのカミをあがめる人、もしくは人々が、土地を「所有」する根拠となったのだ。
 カミのふるう神罰という名の「暴力」は、その住民がその土地に住まうための試練であり、それに耐えることもまた、その土地を所有するという確信の元になった。
 ちょっと話が飛ぶけど、だからイスラエルは自分が絶対正しい、って思えるんだね。数百年にもわたる謂れなき差別と前世紀の虐殺は、ユダヤ人にとって「約束の地」を「所有」する、精神的な根拠になっているのだ。カミの振るう暴力(神罰)は徹底して不条理で、人間には理解不能なものであるので、その不条理な暴力をくぐりぬけたからには、望む土地の所有が認められるはず、というわけだ。カミの不条理な暴力については、旧約聖書に実例がいっぱいある。カミサマに少しでも気に食わないことがあると、ユダヤ人は万単位で殺されてる。

 神秘主義的なもの、宗教的なものは「土地の所有」から発生しているので、後でどんなに超越的に進化しても「財産」を否定できはしないし、「財産」もまたどれほど巨大になろうとも、その根源において非理性的なものを抱えこまざるを得なくなるのだ。
 
 鉄鋼王の父の遺産を受け継ぎ、ヨーロッパでも指折りの富豪だった哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、ある日ぶらりと銀行に現れるとこう言った。
「預けてある金はいらない」
 まあ、いろいろ考えるのに邪魔になったのだろう。
 オレにくれ。


ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)

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