2014年11月8日土曜日

【サムライは愛国心を持たないし持てないんだよ編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

「尊王攘夷」というものがあった。
 明治維新の原動力となった、と普通は解説されている。でもこれ、ほんとのとこは幕府への「いやがらせ」みたいなものなんだよね。借金の古証文を持ち出して、さーどーするどーするとやってるようなもん。
 この四文字を唱えて維新の志士が命を懸けて頑張った、ということはなくて、実際に彼らが命を懸けたのは自分の「名」を挙げるためだ。サムライの本質に立ち返ったわけ。
「尊王」も「攘夷」も、昔々のずーっと昔、サムライというものが貴族から自立しだした頃、その暴力のアリバイとしてつくられたような、言わば「言い訳」だ。「天皇を尊敬するから大目に見てね」「夷狄(蝦夷など)を打ち払うんだからかまわないだろ」てな感じ。つまり建前なんだが、幕府は建前をうっちゃってしまえるほど本音(つまり土地という世襲的「財産」への欲望)に自覚的じゃなかったんで、言い返すこともできずにずるずる引きずられてしまった。
「尊王攘夷」てのは別に絶対のイデオロギーじゃなくて、ただの幕府への嫌がらせだったから、幕府が倒れたとたんに「そんなことも言ってたね」てな具合になった。攘夷はもちろん尊王だって、天皇を東京に移して関白とかの位を全部なくしてわやにした。

 ここで問題なのは、繰り返しになるけど、サムライたちが自分の欲望、つまり「本音」に無自覚だったこと。だから、サムライのまねごとをはじめた連中が、その「本音」とは関係なしに「建前」に欲望を直結させて暴力をふるいだしても、上手く抵抗できなかった。
 その「建前」てやつは「愛国心」と呼ばれた。
 新たに立ち現れた「国家」というものに、サムライのまねごとをしたがる人たちは、己の欲望を直結させたのだった。
 それまでのサムライにとって「くに」とは自分の藩であった、幕府はそれぞれの藩を統括する存在で、日本というものに自分のアイディンティティを直結させることはなかった。してたように語る小説はもちろん、評論やらもウソだから信じちゃダメだよ。

 暴力が正当化される時、それは社会的事由となり、社会の中でなんらかの役割を持つものとしてのアリバイを求める。
 で、暴力が正当化されるのって、だいたい「財産」を獲得するときなんだよね。そして、それが社会的事由として認知されるのは、その「財産」が「世襲」されるときなんだ。
 と、ここで次回に。
 次はちょっとヘーゲルの話になっちゃうけど、めんどくさくてごめんなさい。
 


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以下、続いて書かれたエントリーのリンク集。
読み進むにつれて触発され、「財産」が「世襲」される時に経済的な事象を越えた振る舞いをする、ということについて書こうと思いました。が、あまりに大きなテーマだったので途中で切り上げました。また勉強しなおして、取り組みたいと思います。

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