2014年8月9日土曜日

とんと流行らなくなった「小説家病」というもの

ウナギと山芋 (中公文庫)
    丸谷才一が「小説家病」というものについて書いている。
    これは罹患の程度に段階があって、まず第一期は他人の男女関係にむやみに好奇心を持つようになる、という。さらに第二期になると、他人の文章が気にかかって仕方なくなり、ちょっとでもおかしな文章を見ると添削したくなる、という。
 えー、ここまでは、たぶん、おそらく、ご自分のことをおっしゃってるんだろうなあ、と思う。
 そして第三期となり末期症状を起こすと、「この腐れきった日本をただすのは自分しかいない」などと興奮して国事を憂えるようになるんだそうだ。
 そういやいたな、末期の人。まだ元気なんだっけ。
 なんというか、こういう話を読むと、昔の小説家というのは「そういうもの」だったんだなあ、という感に耐えない。今の小説家とはぜんぜん在り方が違うわけで、そりゃあ末期症状の人が「文学賞の審査員やっててもつまんないつまんない」とだだをこねだすわけだ。
 他人への関心が、文章すなわち他人の内面の論理へとつながり、さらにはそれが「国家」なるものに肥大していくというのは、昔のインテリジェンスの在り方としてひとつのパターンだったのだろう。
 すでにヌーボー・ロマンだかの登場を待つまでもなく、「国家」のことは日常の話題の陰影として、色恋をかたどる枠線のごときものになってしまった。
 今や「国家」を題材にした「小説」など存在せず、伝統的なインテリジェンスの段階をすっ飛ばした、お子様向け読み物でしかなくなっている。でも、そうでないと売れないしね。

 で、この話は次回につづく。

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