2014年5月19日月曜日

将棋はどのへんまで「自由」なのか?Part.2

 前回のつづきというか、つづきのつづきというか、分岐したつづきってことでひとつ。

 さ、明日から名人戦第四局が始まる
 羽生の四連勝か、森内の逆襲か、と盛り上がるところだが、とにかく今回の名人戦は、私のようなへぼが見ても面白いということがある。どの局の棋譜も見ていて興味が尽きない。結局羽生の三連勝になってしまっているが、やはり森内名人相手でなければ、こうはいかないだろう、と思わせられる。
 これを一種の「対話」だとすると、人は一生のうちに、いや、人類はその歴史のうちで、これと同レベルの「対話」を一体どれだけなし得てきただろうか。
 古代ギリシャにおいて、対話 (ディアレクティケー)こそが哲学の神髄だとされていた。それはのちに弁証法(ディアレクティク)と呼ばれるようになる。

羽生VS森内百番指し

 さて、前回コンピューターがどんなに強くても、それは「自由」にならない、ということを書いた。
 これは将棋に限らず、人間の代わりにある程度の「考えて」くれる、もしくは人間が不可能な領域までも「考えて」くれるコンピューターというものに、我々は「自由」というものを問い直されている、ということなのだ。
 これまで、理性的・論理的に考えることは、人間に「自由」をもたらしてきた。
 そしてそれは、何も考えずに衝動的に振る舞うことも、また自由であるとした。
 で、理性はどうあれ、論理の部分をコンピューターがほとんど担うようになったとして、我々に残された自由ってのは、もう衝動的に振る舞うこと、すなわち「リベットの実験」での準備電位による自由、つまりはなーんも考えない「愚かさ」の中にしか自由がない、ということになりゃしないか。
 果たして人間に残されるのは、「バカでいる自由」だけなのか?
 なわきゃーない。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 H.アーレントの『人間の条件 』の条件からちょっと引用してみる。
…………
 道具と機械の決定的違いは、おそらく、人間の方が機械に「適合」すべきか、あるいは逆に、機械の方が人間の「本性」に適合すべきかという、明らかに際限のない議論の中に最もよく示されている。
…………
 ……人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点にある。いいかえると、人間とは、自然のものであれ、人工的なものであれ、すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。そうであるとすれば、人間は、機械を作ったとたんに、機械の環境に自分自身を「適合させた」のである。こうして機械は、まちがいなく私たちの存在の不可欠な条件となっている。それは、それ以前の時代の道具や器具の場合と同じである。
…………

 とまあ、そんなわけで、機械はどんなに便利でも、生産性が高くても、計算が速くても、人間の「不自由」さの投影でしかないのだ。なぜなら、人間の欲望が元々「不自由」なものだから。
「自由」というのは、ただ欲望のあるがままに振る舞うのではなく、自らの「不自由」を自覚し、それを無限に否定することでようやく見えてくるものなのだと思う。

 とりあえず、明日から日本で最も「自由」な二人が、その境地をかいま見せてくれるわけである。
 たのしみたのしみ。


永世名人5

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