2014年5月29日木曜日

ああっというまに焚書完了Part.2

 いちおーPart.1は本宅ここ

 さて、ヤマダ電機がやらかしてくれたようだ。

ヤマダ電機の電子書店が閉鎖 購入書籍は閲覧不能に
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1405/29/news089.html

 本宅で何度か書いたけど、電子書籍てのは、要するに本来タダのものである「立ち読みする権利」に値段を付けて売っているものだ。
 
「立ち読みする権利」を有料化するという発想は出版の在り方を変えざるを得ないだろう
http://www.koshohirakiya.jp/2012/10/29/立ち読みする権利-を有料化するという発想は出版の在り方を変えざるを得ないだろう/

 「立ち読みする権利」てのは勝手な造語なので、別に「自由」としてもらってもかまわない。まあとにかく、人間には「知る権利」ってのがあって、権利ってのはタダで手に入るのが近代国家だ、てことになっているのだ。そいつに値段をつけて商売できるってのは一種の特権なわけで、出版てのはアッシリアの神様みたいに大勢の強力な魔神によって守られている。著作権とかね。
 ところが、図書館というものがあって、こいつは出版社や本屋どころか、資本主義よりも古くから存在している。なんというか、山奥の湖のヌシみたいなもんだ。古代においては、そこに入れる人間は選別されたし、有料だったこともあるけれど、とにかく「本を読む」という行為は、あまり金銭的にあーだこーだ言っちゃいけないものになっていった。まあ、字を読める人間自体少なかったけどね。ゲーテが生きてた頃のドイツ(神聖ローマ帝国)ですら、七割が文盲だったって話もある。
 そんな、本来ならタダのものに値段を付けてんだから、そりゃーもう儲かって儲かって笑いが止まらない、となるはずなんだが、タダほど高いものはないというか、とにかく宣伝しまくらないと、0円どころかこっちからポイントの一つや二つくれてやんないとクリックなんかしてくれない、そんな世知辛いご時世なのだ。
 そのくせ著作権は、ある意味リアルの書籍以上にめんどくさいとくる。そりゃーやめたくもなるわな。もしかしたら、これも南米のジャングルの一人勝ちかなー。

 電子書籍が飽くまで「書籍」の代用品であるうちは、当分こんな状況が続くだろう。
 誰かが新しい発想でブレイクスルーしちゃうことが必要なんだが、きっと日本じゃ誰もやんないだろうな。そのうちアップルあたりがやっちゃいそうな、そんな気がする春の宵なのであるのであった。


ヤマダ電機の暴走

2014年5月28日水曜日

アリのーままじゃーキリギリスになーれないー



 えーっと、タイトルは『アナと雪の女王』で歌ってもらえるとうれしい。

 イソップの「アリとキリギリス」は、元々の話はキリギリスじゃなくて蝉だったんだそうだ。それがヨーロッパの北の方に広がるに従って、キリギリスに置き換わったんだとか。だいたい蝉じゃ寿命が短すぎて、話が成り立たないし。イソップは、蝉という生き物が一週間か長くてもひと月ほどしか生きられない、ということを知らなかったのだろう。
知っていたらもっと別な話になったはずだ。

 さて、そんな働き者の職人Artisanのアリさんだが、音楽を生業とするアーティストArtistのキリギリスを見習った方がいい、ということをおっしゃる方がいる。元小泉内閣大臣で現在慶大教授でパソナグループ会長の竹中平蔵 せんせえだ。

「ヒラ社員も残業代ゼロ」構想の全内幕
http://toyokeizai.net/articles/-/38399?page=7
>ただ本当に柔軟な働き方をしたいと思っている人はたくさんいる。「残業代ゼロ」になるとあおる議論もあるが、今でもアーティストは残業代ゼロなんですよ。現実にはそういう働き方のほうが高い付加価値を生み出す時代になっている。


2014年5月25日日曜日

「なぜ温泉に卓球がつきものなのか」というオトナのヒミツについて

 そのつもりはなかったんだけど、なんとなく昨日のつづき。

卓球温泉 
「なぜ温泉に卓球がつきものなのか」ということのにように、何となく「それは言わない約束」として守られてしまううちに、本来の有り様が忘れられてしまう、ということは間々ある。
 (以下十八禁

2014年5月24日土曜日

「なぜ温泉に卓球がつきものなのか」その理由は言わないのがオトナというものなのだ



 ふと思い立ってググってみたんだが……
 いやあ、答えている方々がみんなオトナなんで、ほっと胸を撫で下ろした次第。
 曰く「老若男女で楽しめるから」
 曰く「日本に卓球ブームがあったから」
 曰く「手軽に楽しめるから」
 嘘が上手いのはオトナの印。

2014年5月22日木曜日

最近「科学的に考える」とかいう人が馬鹿に見えてしょうがないということについてのメモ:改訂版

 二年も前の本宅エントリーなんだけど、なんでか最近になってまたアクセスがある。美味しんぼのせいか?
 でもちょっとだけ内容に足りない部分があるので、こっちに改訂版をアップしてみることにした。

(以下、改訂版)
 なんか煽り気味のタイトルを付けてしまいましたが、「馬鹿」というか、「わかってないなー」と思うわけで、まあやっぱり一言で言って「馬鹿」なわけです。ばーか。

 えーっと、放射能についてなんですが、「正しく恐がる」という人たちがいるわけです。
 で、これが一見正しそうに見えて実は大事なことを見落としているんですね。
 それは、「自分は頭が良い!」って思ってる人がよくやるあやまちです。
 たとえば、先日無免許居眠り運転で事故った兄ちゃんが、どういうわけか無罪放免になって、「俺は二度と事故らない!ちゃんと免許も取った!」といってタクシーの運転手を始めたとしたらどうでしょう?
 それに乗りたいと思いますか?
 黙ってられたらわからん、という意見もあるでしょうけど、そういうのは置いといて。
 例えが乱暴なのは、わざとです。このくらい刺激的にしないとピンとこないでしょ。

 つまり、問題は「信用」なんです。
 科学は「信用」をなくしてしまったんです。3.11以降のごたごたで。
 それなのに口を開けば「科学的に考えることが大事だ!」って、それじゃだめだめです。
 そりゃ「科学的に実証された事実」と「社会的な信用」なんてものは、全然違うもんです。だけど社会ってのは科学だけでできてるわけではない。それよりも「信用」でやつで動いている。

 まず、「信用」とは何か。
 それは「凡人が生きるための道」です。
 大金持ちだったり、東大出だったり、甲子園で優勝したりすると「信用」なんてものは天から降ってきます。美人だったり、やたら口がうまかったり、平気で嘘がつけたり、そういうことでも得られたりしますね。反則気味ですが。
 しかし、生まれつきの能力が劣っていたり、大した資産の持ち主でなくても、そして運動音痴でも、器量が悪くても、口べたでも、誠実に堅実な努力を積み重ねることさえできれば同等の、ときにはそれ以上の「信用」を得ることができるんです。
 これは、大多数の人間が生きていくために、そして社会が正常に機能するために、絶対に必要なことなんです。

 ただし「信用」ってのは、まったく非論理的で非理性的で、もちろん非科学的なもんですから、運用次第で関係のないとこにとばっちりが行ったりします。
 福島の農産物が売れないこともそうですね。信用を失ったのは「科学」のほうなんですが、農家がそのとばっちりを受けてるんです。それなのに「科学」の側は知らんぷりで、「科学的に考えないやつが悪い!」というばかり。だからその「科学」の「信用」が失われてるのに、どうして「科学的に」考えられるんだ、って話。

 「百年積み上げた信用も、失うときは一瞬だ」てのはよく言われることであります。
 では失った時どうすればいいか?
 また百年積み上げるしかやりようがないんです。
 科学はその本分に還って、地道に科学的な成果を見せていくしかありません。
 「科学者は語らない。ただ記述するだけだ」というマッハの台詞に還ればいい。

 「信用」なんかより「科学」の方が大事だろ!という人もいるんでしょうけど、比べてもしょうがないんですよ。てか、比べられると思ってることが頭が悪い。
 もし、「信用」の代わりを「科学」が担うことになったら、そのとき「科学」は科学ではなくなります。
 科学がイデオロギーになるのは、そういう時です。
 またイデオロギーの話になってしまいましたが、気づいてない人が多すぎるんでせめて自分くらいはきちんとしておこうと、まあ、あの、そんなとこです。

 「科学はイデオロギーから一番遠いところにあるから、科学的に考える俺はイデオロギーとは無縁だ」と無邪気に信じてる人がいたりするんですが、そういう人が一番タチが悪い。知ってますか?ボリシェヴィキは「科学的に政治をする」つもりだったんですよ?自分たちだけはイデオロギーから離れていられる、と思ってたんですよ?その結果どうなりました?
 つまり、放射能を「正しく恐がる」とか言ってる人たちは、知らず知らずのうちにイデオローグになっちゃってるんですね。そんなことくっちゃべる前に、黙って福島の農産物食べてりゃいいんです。そういうのに限って、スーパーで輸入ものを選んだりしてそうですが(あ、これは邪推です)

 最後に、「正しく恐がる」の由来は寺田寅彦だそうですが、彼の言う「正当にこわがる」ってのは多くの人が使ってるのとは別の意味です。「こわがらなきゃいけないものは、ちゃんとこわがりましょう。無根拠に『へーきへーき』とか言わないようにしましょう」てことです。有名な「災難は忘れた頃にやってくる」もそうですが、この人は都合よく使われ過ぎですね。


寺田寅彦の科学エッセイを読む (祥伝社黄金文庫)

2014年5月21日水曜日

「私は全力を尽くした。できるものならやってみるがいい」Feci, quod potui, faciant meliora potentes.と川島雄三が言ったわけではないが


 妻が、というか、当時はまだ妻ではなかったが、フリーライターとして駆け出したころ、よく「テープ起こし」の仕事もしていた。録音されたインタビューの内容を、そのまま文字に起こすというやつである。一応若い人に説明しておくと、「テープ」というのは、当時はカセットテープで録音するのが主流だったからだ。妻はカセットレコーダーをジャン・ヴァルジャンの馬のごとく、次々に使いつぶしたものだった。
 その「テープ起こし」でさんざん苦労したのが、上掲の「人は大切なことも忘れてしまうから」である。なんせこのときまで、妻の日本映画に関する知識ときたら、野球について語る黒柳徹子とどっこいだったんだから。ねえ知ってる?黒柳徹子は「ホームランを打て!」ってサインがあると思ってたんだよ。
 私とてほめられたものではなかったが、一応フィルダースチョイスやインフィールドフライが何か、程度のことはわかっていたので、ずいぶんと協力した。しかしこの辺りのことをあんまり書くと、あとでケツの穴を増やすことになりかねないので、とりあえずおしまい。まあでも、前書きで山田太一が、一言だけ妻に謝意を述べているので、苦労も少しは報われたかもしれない。
 しかしこの仕事を手伝ったことは金銭的な利益は0だったが、望外の「財産」を得ることができた。川島雄三というそれまでエピソードでしか知らなかった映画監督について、より立体的に知ることができたのだ。あ、それと、妻と結婚したっけ。

監督川島雄三 松竹時代

2014年5月19日月曜日

将棋はどのへんまで「自由」なのか?Part.2

 前回のつづきというか、つづきのつづきというか、分岐したつづきってことでひとつ。

 さ、明日から名人戦第四局が始まる
 羽生の四連勝か、森内の逆襲か、と盛り上がるところだが、とにかく今回の名人戦は、私のようなへぼが見ても面白いということがある。どの局の棋譜も見ていて興味が尽きない。結局羽生の三連勝になってしまっているが、やはり森内名人相手でなければ、こうはいかないだろう、と思わせられる。
 これを一種の「対話」だとすると、人は一生のうちに、いや、人類はその歴史のうちで、これと同レベルの「対話」を一体どれだけなし得てきただろうか。
 古代ギリシャにおいて、対話 (ディアレクティケー)こそが哲学の神髄だとされていた。それはのちに弁証法(ディアレクティク)と呼ばれるようになる。

羽生VS森内百番指し

2014年5月18日日曜日

ないしょだけど大きくなったらゴジラになりたいと思っていた

 ちょこちょこ読んでるブログにこんなエントリーがあがった。
From The Mouths of Babes

 ゴジラの予告編を見た後、十歳の娘に感想を聞いてみたんだそうだ。(なんか、誰かと芸風が似てるな……)
 で、娘さんの言うことにゃ「なんてか……ゴズキを出せ!」と。
 ゴズキGodzuki
 今まで全然知らんかったんだが、アメリカにはアニメ化されたゴジラがあって、主人公はゴズキという、上手く火が吐けないゴジラの子(いとこ?)なんだとか。
 えーっと、ミニラのことか?

2014年5月17日土曜日

ゴジラゴジラゴジラがまた来るぞ


 ハリウッド版ゴジラが公開されたそうだ。今度は3Dとのこと。
 予告編を見る限りでは、ゴジラの首が太くなってて血圧高そうだね。もっとダイエットしないとダメだよ。

2014年5月15日木曜日

なぜおばあさんというものは怖い話をごく普通のことのようにして話すのかPart.4

 確か今頃の季節のことだったと思う。
 よく晴れた日、私はおばあさんが畑仕事をするところを見ていた。
 まだ保育園に通っていた頃で、園は休みだというのになぜか私はスモックを着ていて、何らかの用で両親が留守にしていたのを憶えている。
 おばあさんはふと畑を耕す手を止めると、私の方へ丸くて茶色い穴のあいたものを放ってよこした。手まりと同じくらいの大きさで、たいして重くなさそうに見えた。
 おばあさんはその時、ちょっといたずらっぽい感じでこう言った。
「ほれ、しゃれこうべが出てきたぞ」

2014年5月14日水曜日

『美味しんぼ』って漫画を参考にして料理しても美味しくならないのはなぜか

美味(おい)しんぼの料理本 
(ビッグコミックス スペシャル)

美味しんぼの料理本―Recipe (続)
 (BIG COMICS SPECIAL)
 

 というか、『美味しんぼ』に限らず、このテのバトル系の料理漫画はだいたいそう。食べらんなくはないけど、漫画の中で効果線たっぷりに大ゴマでときには涙にむせびながら感動するほどではない。まあ、真に受ける方がどうかしてんだろうけど。
 で、最近『美味しんぼ』の内容について、世間で何やらごたついているようだ。

2014年5月13日火曜日

清浄機よ永遠なれ!


【PM2.5対応】SHARP プラズマクラスター搭載 空気清浄機 ホワイト系 FU-B51-W

 今年の花粉症は軽かった。
 昨年より飛散数が少なかったということもあるだろうが、なんといっても、我が家に空気清浄機を導入したのが大きかった。
 その素晴らしいききめに惜しみない拍手を送りたい。ドン○ホーテで見知らぬメーカーの安物を買わなかったのは正解だった!よくやったぞ、ピョートル!(←だから誰?)


 で、タイトルはオヤジギャグ(といっても妻が口にしたんだが)なんだけど、以前このアメリカ国歌が、元々はホモの酔っぱらいギリシャ人の歌だった、ということを本宅の方でエントリーにしたことがある。
 ついでに思い出したんだけど、確かまだ小沢昭一が生きていたとき、永六輔といっしょに「ニュース23」に登場して、「君が代」の歌詞をこの「星条旗よ永遠なれ」のメロディーにのせて歌う、というネタを披露していた。けっこうちゃんとはまるんで驚いた。ちなみに、二人ともほろ酔い加減だったように思う。


2014年5月11日日曜日

やっぱり「♫自由ってなんて不自由なんだろう」と歌ってしまうのだ

 娘がまだ小学一年生だった時、こんな質問をぶつけてきた。
「なんで子供は自由じゃないの!?」
 いろいろあって、かなりおかんむりのご様子。
 はあ、じーゆー、じゆうねえ、そんな単語どこで拾ってきたんだ。
「あー、それはね、子供には責任がないから」
「せきにん?」
「無責任かつ自由とかね、はた迷惑なだけだし。だから子供には自由がないの」
「責任て何」
「ちゃんと働くことかな。ま、他にもいろいろあるけど、とにかく子供には責任がない。だから自由もない。オーケー?」
「わかんない!!」

2014年5月10日土曜日

マッハGO!ごう!!業!!!

 迷うことは、楽しい。
 いや実際、迷っている人間は苦しそうな顔をしつつもどこか楽しげだ。なぜなら、迷っている間は、そこに「自由」があるように感じられるから。何かを選択すれば、ただちにその「結果」という不自由を受け入れざるを得なくなる。ビュリダンの驢馬が飢えて死ぬのもむべなるかな、と思える。
 しかし現実には、人間が「迷う」ことなどない、となったらどうだろう。
 迷いに迷って緻密な論理をくみ上げて選択した結果が、そんなの全然関係無しにカンで決まっていたのだとしたら?
 実際、そういうイジワルな実験をした人がいて、それは「リベットの実験」と呼ばれている。

マインド・タイム 脳と意識の時間 

2014年5月9日金曜日

将棋はどのへんまで「自由」なのか?

プロフェッショナル 仕事の流儀 第V期 名人戦 森内俊之VS羽生善治 最強の二人、宿命の対決 [DVD]

 将棋で名人というのはどのくらい「強い」のだろう?
 先月の名人戦第一局はしびれた。
 加藤一二三こと「ひふみん」がおっしゃるには、「千局に一局」の珍しい形だそうだ。
 棋譜だけ見てると、一見子供同士で遊んでいるかのような感覚がある。なんというか、ボクシングのチャンピオン戦で、お互いの選手が突然「必殺ぐるぐるぱーんち!!」とやりだしたような、そういう感じ。それでいてパンチの一つ一つは、そのスピードや回転のタイミングが計算し尽くされているのだ。なにこれ面白すぎ(笑)

2014年5月8日木曜日

「殺しは禁じられている。だから殺人者は皆罰せられる。ただし、トランペットの音にのせ、多くを殺せば別である」(ヴォルテール)


 先月、アクト・オブ・キリングという映画を見た。本年度アカデミー賞確実と言われるドキュメンタリーである。エントリーのタイトルにした警句は、この映画の冒頭に掲げられたものだ。
 かなり特殊な映画で、虐殺を行った当事者に映画の撮影を持ちかけ、当時どのようにして反体制勢力(共産党員)をたくさんたくさん殺したか、実際に演じてもらったという内容になっている。
 その虐殺は一九六五年にインドネシアでのクーデターに伴い、インドネシア共産党もしくはその「協力者」と目された人たちが、一説には百万人(もちろん正確な数字ではなく、それ以上になる可能性もある)が殺害され、共産党は非合法政党とされて、それは今もそのままだ。
 この事件を契機にスハルトが実権を握り、デビ夫人は国を追われ、初代大統領スカルノは孤独のうちに死ぬこととなる。
 この虐殺に関わった人たちも、その組織も、現在のインドネシアにそのまま残っており、今でも変わらぬ地位と権力を握っている。追い出されたのはスハルトくらいか?
(以下、ややネタバレが含まれます)

2014年5月7日水曜日

「バルテュスってデッサンおかしいよね」とウチの娘が言うのであった

バルテュス展 公式図録

    ゴールデンウィークのしょっぱなに、娘を連れてバルテュス展に行った。
 家族連れで観るのはちょっとなアレな展覧会であることは重々承知していたが、娘も高校生になったことだし、ちっとは芸術の暗黒面っぽいところも知っておいた方がよかろうと判断した。ちなみに、私がバルテュスの存在を知ったのは中学生のころ、澁澤龍彦著作を通してのことだ。うーん、ありがちありがち。
 で、一通り見終わって娘に「どうだった?」ときくと、
「えー、バルテュスって、デッサンおかしくね?」
 さすがなりたてほやほや女子高生、感想が素直すぎる。だが、確かにその通りだ。しかし、それは言わない約束よって感じで誰もそのことは口にしない。まあそんなことを言うのは、女子高生と同レベルってことなのだろう。
 ところが、その「デッサンがおかしい」絵について、展覧会の紹介文では
なんて書いてある。
 なんでこんな表情の乏しい、手足の関節が微妙な方向にぽきぽき折れ曲がってる絵に、人々は「美」を感じてしまうのか?それについて、ちょっとヒントになる絵がある。