2013年9月30日月曜日

誰かさんと誰かさんが誰かさんを誰かさんに誰かさん

Banned Books Week 2013
http://www.theguardian.com/books/booksblog/gallery/2013/sep/27/banned-books-readers-censored-pictures#/?picture=418483658&index=0

 アメリカ図書館協会が「発禁図書展示会」みたいなのを開きました。
 しょっぱなに取り上げられてるのは、かの有名な『ライ麦畑でつかまえて 』ですね。
 今読むと、なんでこの程度の内容で大騒ぎしたんだかて感じで、キャプション書いた人も「俺なんか九歳の娘と幼い甥っ子にブレゼントしちゃったよ」て言ってます。まあ、三、四〇年前くらいまで、アメリカの学校ってのはピューリタニズムばりばりで、日本の学校より厳しい面があったりしたそうですから、多くのハイスクールで『ライ麦畑でつかまえて 』は悪書とされ、持ってるのバレると退学になったこともあったとか。今のアメリカの学校じゃ、毎年節分みたいに銃乱射する学生が現れたりしてますけどね。

 じゃあ、このとびきりロングセラーな小説が、まったく人畜無害かというとそうでもありません。読んでも「ただちに影響はありません」が、人によってはおつむの大事なところにえらいこっちゃな影響をおよぼしたりするんです。

2013年9月28日土曜日

結婚するとか死刑だとかいうことだけじゃなくて(一応昨日の続き)

 前回のまとめのまとめとして「死刑という制度は民衆が暴君をどの程度待望しているかという目安になる」ということになってるんだけど、カントは死刑廃止論を否定しつつもこんな按配で死刑を肯定してるんだが、肯定論の人はこれでいいのかねえ。
 だいたい『人倫の形而上学』てのがタイトルからして不埒なもので、例えば「おふくろの味の科学的分析」だったら、そこでどんなに「おふくろの味」を「美味い!」「すばらしい!」と肯定していても「科学的分析」と言ってる時点で「なんか違う」だろ、というのと同じような感じだ。
 そんなわけで最初に戻って、当時の結婚制度だって形而上学的に考えたら、ヘーゲルが言うように「身の毛もよだつ」ような姿が浮かび上がる。バビロニア人のことをどうこう言えない、てわけ。


2013年9月27日金曜日

「死刑!」じゃなければ「アフリカ象が好き!」と言えばいいじゃない(一応昨日の続き)

 昨日の続きだけど、内容はあんまり続いてないので、タイトル変更。


ドイツ古典哲学の本質 (岩波文庫 赤 418-5)

「フランス革命では王の首が切り落とされたが、カントは神の首を切り落とした」とハイネは『ドイツ古典哲学の本質』で述べている。ほんとはもっとぐだぐだ書いてるけど、だいたいこんな主旨。
 しかしカントは敬虔なクリスチャンであり、哲学と宗教の役割をはっきりと弁別し、『実践理性批判』ではやたらと神について擁護している。ハイネはこの『実践理性批判』を「召使いの爺さんを慰めるために書いたのだろう」なんて貶めている。でもまあ、そう言いたくなる気持ちも判らないでもない。「私は無神論者じゃありませんよ〜」という言い訳がましい記述に満ちているからだ。
実践理性批判 (岩波文庫)
 そうやって必死で言い訳しなきゃならんほど、『純粋理性批判』てのは凄まじい本だったわけだけど、カントだって生活があるわけだから、そうそうとんがってばかりもいられない。
 カントは身長一五七㎝、生来の虚弱体質で、書斎の温度を常に一定に保ち、決して汗をかかぬようつとめていた。町の人々が時計代わりにしたほど、規則正しい散歩を日課としたことは有名だ。まかりまちがって著書が検閲に引っかかり、大学の職を失うことになったら、まず生きてはいられない。当時、書籍の検閲は「常識」だったのだ。
 『実践理性批判』は無神論への言い訳になったが、刊行した翌年にフランス革命が起こった。前回とりあげた『人倫の形而上学』は1797年、フランス革命戦争の真っ最中に書かれている。ちなみにハイネはこの年に生まれた。

2013年9月26日木曜日

そして誰も結婚しなくなったりしないと思うけどPart.2

 Part.1の続き、というわけでないけれど。

 前回に続いてまたヘロドトスの『歴史』。

     バビロニアの結婚制度ってのは、まったく資本主義にのっとったものであった。どのようなものかというと、年に一度、年頃の娘が広場に集められ、そこで器量の良い娘からセリにかけられるのだ。つまり、金持ちの貴族ほど美人を娶ることができる。そして不器量な娘や身体に障碍のある娘は逆に持参金がつけられる。なので貧乏な庶民はそうした娘と結婚するしかない。なお、この婚活のセリに本人の意向はもちろん、娘の親たちの思惑もなんら反映されることはない。
 なんという格差社会……
 ただこの風習は、ペルシャに占領されてバビロニア人が全員貧乏になって消滅した。バビロニアの娘は全員娼婦になるより生きる道がなくなったからだ。で、ヘロドトスはこの制度について「気が利いている」「すばらしい風習」とコメントしている。まあ、昔の人だからねえ。
 今だってたいして変わらないじゃん?などという、ひきつり笑顔の高校生レベルのことが言いたいわけじゃない。
  このような制度を抜き出してみたのは、果たして結婚に「愛」は必要なのか、というカントの疑問に対して、その答の一つになっているように思ったからだ。

2013年9月25日水曜日

長生きする人たちは長生きするのだろうなあ

ヘロドトス『歴史』
――世界の均衡を描く
(書物誕生 あたらしい古典入門)

    昔々その昔、まだ中東で石油が全然出てなくて、イスラム教とて影も形もなかった頃の話。
 アケメネス朝ペルシャの暴君カンビュセス(おじいさんもカンビュセスでそのまたおじいさんもカンビュセスなんでまぎらわしいけど、B.C.六世紀頃の王様)が、エジプト征服の余勢をかって、一丁エチオピアでもいてこましたろかい、という気になった。いや、ほんとそういうノリの王様なんで。
 そこでエチオピアでも有名な「長命族」を征伐しようと、以前家来にしといたイクテュオパゴイ人に贈り物を持たせて偵察にいかせた。イクテュオパゴイ人はエチオピア語がぺらぺらなのだ。
 長命族の王様は、そんなペルシャの暴君の浅はかな思惑をすぐに見抜いたが、変に警戒することなく使者たちをかえって歓待した。
 そして、ペルシャ人は何を食べてどのくらい生きるのか、と下問した。
 使者たちは、ペルシャ人はパンを主に食べ、八十歳まで生きるものは少ない、と正直に答えた。そして、長命族がパンを知らないので、小麦の栽培法からパンの焼き方まで事細かに伝えた。
 すると長命族の王はかようにのたまった。
「うんこなんか食べてたら、寿命が短いのは当たりまえだ」
 小麦を栽培するのに肥料として人糞を使うので、小麦からつくるパンを食べるのは人糞を食べるのと同じだ、と王様は考えたわけだ。
 そして王は使者たちに自分らの食生活について語った。彼ら長命族が普段食しているのは肉を煮たものがほとんどで、飲み物は主に動物の乳であり、小麦はもちろん植物っぽいものは食べない云々。
 それでいて長命族は平均して百二十歳は生きる、とのことであった。
 さてこの長命族と訳される一族、元の名を「マクロビオイ」という……

2013年9月23日月曜日

踊らぬアホウとバブルの気分

 朝図書館に行くと、必ずコーヒーを飲んでいる。といっても喫茶コーナーに行くのではなく、一階フロアの自販機で買うのだ。紙コップに出てくるタイプで、一杯八十円也。リーズナブルだ。味だってスタバとかで飲むのとさして変わらない。
 ところが、ここで一つ、個人的に困ったことが起きた。
 ひと月ほど前のことだが、自販機のお釣りをとったら五十円あったのだ。おそらく、前に買った人がとり忘れたのだろう。まあいいか、といただいてしまったのだが、これが間違いの元だった……
 それからというもの、自販機でコーヒーを買うたび、一瞬だが、ある「期待」が胸をよぎるようになってしまったのだ。またお釣りが多くないだろうか、という期待が……
 自分のさもしさと、そんなさもしさにいちいち胸を痛める器の小ささに、我ながら辟易としてしまう。はあ。