2013年10月11日金曜日

三人の囚人と信用と凡庸と差別(仮題)

 とある国のとある刑務所はとうとう囚人が入りきらなくなり、微罪のものから選択して解放することになった。
 そこで所長は微罪の三人を選び出し、こんな提案をした。
「ここに円板を五枚用意した。三枚は白で、二枚が黒だ。このうちから選んだ一枚づつをお前たちの背中に貼ることにする。他の者の背中を見ることはできるが、決して自分の背中を見てはならない。また、会話はいっさいしてはならない。自分の背中に何色が貼られているのか、一番最初に分かった者だけが釈放される。また、ただ分かるだけでなく、なぜその色だと分かったのか、論理的に説明できることが必要だ。これができなければ、解答は無効である」
 そして、所長は三人の囚人の背中に、白い円板を一枚づつ貼った。
 しばらくの間、囚人たちは互いの背中を見て首を傾げていたが、そのうち三人ともが同時に所長のもとにやってきて、三人ともが正解した。
 所長は、約束通りに囚人を三人とも解放したのだった。
 さて、囚人たちの解答とは、どのようなものであっただろうか。
  似たような問題は私立中学の入試問題で出るくらいなので、 ちょっと考えれば分かると思うけど、一応正解を書いておこう。

「もし俺の背中に貼られた円板が黒だったなら、 他の一人は白と黒を一人づつ見ていることになる。するとその一人はこう考えるはずだ『もし俺が黒なら、白を貼っているやつは黒を二つ見ていることになる。黒は二つだけなのだからすぐ答が出るはずだが、そいつはその素振りがない。てことは俺は白だ』とわかるはずなのに、その一人は答える素振りが見えない。そしてもう一人も答が分からないようだ。ということは、俺の背中に貼られているのは黒じゃない。白だ!」

 三人とも同時にこの考えにいたり、同時に答えたのだった。
 長々と書いてしまったが、超簡単に言うと、「三人ともが互いの背を見ただけでは分からない、というパターンは『三人とも白』だけである」てこと。 分からないがゆえに分かる、という論理の不思議。
 このお話を、ジャック・ラカンは「人間が人間として人間を認識する構造」の例として紹介している。
 人間が人間であるということは、 明確な定義があるわけではなく、「互いの行動を見て」「同時に」「同じ結論にいたり」「同じ答を口にする」ということでしかないのだ。
 それゆえ、
「人間は人間でない者を知っている」
「人間たちは人間たちであるために互いのあいだに自分を認める」
「私は人間たちによって人間でないと証明されるのを恐れながら、自分は人間であると断言する」
 という不安をつねに抱えることとなる。

 さて、ここで思考実験。
 もし三人の囚人たちが会話を禁じられていなかったどうなるだろう。囚人たちは事前に顔見知りではなかったものとする。
 一般人であれば、互いの背中の色を教え合えばいいだけのことだ。
 だが囚人たちは自分の釈放がかかっている。まっさきに自分だけが抜け出さなくてはならないのだ。ということは、自分の得た情報は簡単に教えたくはないし、教えたとしてもウソを混ぜるだろう。それは三人ともがそう考える。
 そうして、互いに会話したとしても、やはり結果は同じく、同時に解答することとなる。
 人間を人間たらしめる構造が、互いの不信によってさらに浮かび上がるとき、それは「人間」という無意識下の構造ではなく、意識的な何ものかになる。 共有するのは行動(この場合解答すること)のみであり、互いの不信がその行動の前提となる。
 この構造は、人間を人間たらしめるものと同じ仕組みでありながら、不信を前提とした意識にはっきりと現れるものとなり、それはパラノイアックな性質を持つようになる。
 例えば「民族」
 前述でラカンが指摘した人間存在の不安が、そのまま「民族」につながるとどうなるか。
「○◎人は○◎人でない者を知っている」
「○◎人たちは○◎人たちであるために互いのあいだに自分を認める」
「私は○◎人たちによって○◎人でないと証明されるのを恐れながら、自分は○◎人であると断言する」
 というような「行動」(言動を含む)という形を持って現れてくる。

………………
長くなるので、次回に続きます。

二人であることの病い パラノイアと言語 (講談社学術文庫)

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