2017年3月11日土曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「存在」ってやつは日本語で説明したほうが良いんじゃないの?編】

荒井注のジスイズアペン


「ジスイズアペン」と言えば、今は亡き荒井注の持ちネタだった。ピコ太郎とかいうのが出てきて久々に思い出した人も多いだろう。
 This is a pen. という、簡単でありながらおよそ日常で使用することはないであろう文について、日本語訳は「これはペンです」で定着している。
 これ「は」ペンです?じゃあ、これ「が」ペンです、という場合はどうだろう。This is the pen. だろうか。しかしこうなると、This is a pen. のように単独に取り出せないし、ニュアンスが微妙にずれている。冠詞というやつはまったくやっかいだ。ドイツ語ときたらそれに加えて男性・女性・中性で異なったり格変化もする。ああよかった、日本語に冠詞がなくて、という話ではなく、この単純でありながら非日常的な文において、ペンの「存在」を問うとしたらどうだろう?
「これはペンです」ではなく、「これはペンである」とする。
「である」として、やや説明的に存在を語るのは「本質存在essentia」と、哲学用語では呼ばれる。それに対し、「がある」は「事実存在existentia」とされる。
プラトン
ピレボス
 (西洋古典叢書)

「ペンである」とその本質を語るのに対し、目の前に容赦なく存在する事実として「ペンがある」と示すわけである。
 しかし、「ペンがある」とすると、「これはペンがある」というのは間違った言い方になる。ではやはり「これがペンである」だろうか。それだと文脈としてペン以外の諸々を想定しなければならず、「諸々」としての「類」を語ることで「存在」について示すことになる。これは「存在は類」だとしたプラトンっぽい。アリストテレスの存在論はこれを否定して、ハイデガーもアリストテレスにならっている。なぜなら、事実存在として「がある」と語ることは、非常に重要な背景を提示してくれるからだ。
 その辺のことを日本語で書くと、意外にもとてもわかりやすくなる。ドイツ語よりもずっと。
 もう一度「ペンがある」に戻ろう。事実存在として「ペンがある」というとき、「これはペンがある」とは表さない。日常で使用しないどころか、決して声に出してはいけない間違った日本語である。正しくは「ここにペンがある」となるだろう。
「ここに」と「ペンがある」と文をつなぐことから見えてくるのは、「ペンがある」というペンの事実存在は、「ここ」という場所とその背景の時間、つまりは「いま、ここ」とわかちがたく結びついているということだ。
 事実存在を略して「実存ousia」であり、それは「財産ousia」であり「土地ousia」であり、それらにわかちがたく結ばれていることが、「ここに」ペン「がある」とするとはっきりくっきり見えてくる。ハイデガーが万言を費やして説明した「存在と時空の結びつき」が、この単純な文法の中にすんなり自然に表れているのだ。


ハイデッガー 
ツォリコーン・ゼミナール
 さて、ハイデガーが単純にものの「存在」を語る時、どのようにそれをなしたか。そのことは『存在と時間』という書かれたものではなく、語られたものとして『ツォリコーン・ゼミナール』のようなものの方が良いだろう。
 そこでハイデガーはテーブルの存在について語っている。
…………………
……たとえばテーブルの実在的実存的realな(註:realを実存的と訳しているが、普通に物質的と考えて良いと思う)述語とは、そのテーブルが現実wirklichに存在しているか、あるいはただ表象されているだけなのかとは関わりなく、丸い、固い、重いなどです。
 これに対して、存在は、たとえテーブルをもっとも小さな部分にまでばらばらにしても、テーブルにおける実在的な何かとして見つけ出すことができません。
……………………
 わたしたちはテーブルに存在existenzを認めzusprechenながら、同時にテーブルの一つの性質としての存在を否認absprechenしています。
……………………
 『ツォリコーン・ゼミナール』は、精神科医メダルト・ボスがハイデガーをツォリコーンの自宅に招き、彼とその弟子や知人の精神科医たちに「哲学講義」をしてもらった、その記録である。
 このゼミナールは十年に渡って開講され、ボスやビンスワンガーによる精神分析手法である「現存在分析」に多大な影響を与えたという。なお、ボスはハイデガーとナチスの関係について周囲から警告を受けたが、『存在と時間』に感銘を受けてハイデガー招致を決意したと前書きで述べている。
ハイデガー(左)とM.ボス(右)
……………………
……わたしたちはこのテーブルをまず記述しました。しかしそれはわたしたちの関心事ではありません。わたしたちが関心を向けるのは、「存在するテーブル」だけです。
……………………
テーブルが人間と同じようなありかたで空間の内にありえないのは、それが作られたものだからでしょうか。……製作するherstellenということには、「ここに立つhier stehen」という意味があります。テーブルはすでに作るという関わりから離されています。手仕事と芸術の意味は、作られたものがそれ自身で立ちうるということです。
……………………
空間は人間の本質に属しています。わたしは空間内の事物に関わり、それを通じて空間にも関わっています。空間は人間のために開けています。
……………………
 などと、ハイデガーはゼミナールの最初の方(一九六四年七月六日)で語っているが、三日後にはこう言いだす。
…………………
 この前のゼミナールは、どちらかといえば失敗でした。
……………………
 またお得意の必殺「ちゃぶ台返し」である。テーブルだけど。
 しかし、なぜ失敗したのか。「存在」について語っているのなら、テーブルについてだってきちんと語れるはずではないか。


 と、ここでまた次回に続きます。



メダルト・ボス、東洋の英知と西欧の心理療法―精神医学者のインド紀行

2017年3月9日木曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「気づかい」ってのは何なんだろうの続き編】

   世の中には臨死体験と呼ばれるものがあるそうだ。生きているうちに「死を想う(メメント・モリ)」のではなく、実際に死にかけて死の淵にあるときに経験することだ。その時、人は自分の人生を丸ごと回想したりするという。そんなことになったら恥ずかしくて悶え苦しみそうだが、死ぬ間際ともなればどうでもよくなるのだろう。
 さらに上級者になると、なにやら川やら花畑やらがでてきて、その向こうに親しくしていた故人が手招きしてたり、来るな来るなしっしっとしてたり、楽しそうに遊んでいたりすると聞く。故人が取っ組み合いの喧嘩をしていたとか、白目をむいてちあきなおみのマネをするコロッケをマネていたとかは聞かない。あったらいいと思うが。
 そうした「体験」が死後の世界の存在を証明しているかはさておき、ここでわかるのは死の間際において、人生のあれこれはすべて「なつかしい」ものとなる、ということだ。彼岸に待ち受ける人たちもすべて「なつかしい」人たちばかりだ。
 そうしたことと同じようなことを、ハイデガーに語らせると以下のようになる。

2017年2月20日月曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の「気づかい」ってのは何なんだろう編】

 誰もがそれを経験しているのに、それを直に表す単語がなくて、「あるよねー」「うん、あるある!」と『100人に聞きました』(古)状態になってしまう、そんな経験があると思う。うん、あるある。

2017年2月18日土曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について述べつつ世界・内・存在や実存についても開示していくよの続きの続き編】


…………………
不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。かのものの死をこのものが生き、かのものの生をこのものが死している。
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2017年2月10日金曜日

2017年1月21日土曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について述べつつ世界・内・存在や実存についても開示していくよ編】

『存在と時間』
旧訳
 初めて『存在と時間』を読んだのは大学時代だったから、もう三十年も前のことだ。岩波文庫の上中下三冊で、おそろしく読みづらいシロモノだった。ブルドッグのいびきのような音を口から漏らしつつ、タールの海を渡るような心地で読み進めていったのだが、最後まで読んでも納得のいかないことが一つ残った。
 それが「現存在」というやつである。現存在は「人間」のことで、存在を規定する特別な存在だというのだ。え?存在って、人間を特別扱いすることで規定されるのか? なら、人間という「存在」はいったい誰が規定すんの?

2017年1月20日金曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…の現存在について他人のふんどしで書いてみる編】

 ちょっとここで、他の人たち言を引きつつ、他人のふんどしでもってハイデガーについて語ってみたい。

本来性という隠語―
ドイツ的なイデオロギー
について 
(ポイエーシス叢書 (11))
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《現存在》が《存在的》「である」とか《存在論的》「である」ということは厳密には、そもそも判断不可能なのである。というのも現存在》ということで思念されているものは、或る一つの基体であり、その限りで《現存在》という概念の持つ意味は、非概念的なあるものだからである。
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「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮だ」としたテオドール・W・アドルノによるハイデガー批判である。アドルノはハイデガーが「本来的」と「非本来的」に存在を区別することについて、そこにファシズムとの親和性を見出している。
 ここでは「現存在」を、存在でもその概念でもないと指摘している。