2016年3月3日木曜日

特権的な出会いのためにもしくは鰐川枝里『米とりんご』(振付:勅使河原三郎)の感想を少し

    先月、二月の二二日(ネコの日だそうだが)、いつものようにKARAS APARATUSへダンスを見に行った。
 勅使河原三郎と佐東梨穂子は海外で公演中なので、今回は新進の鰐川枝里である。この人は以前ちらっと舞台で踊ったのが印象に残っていた。バネの利いた踊りで、見るものを引き込んでいく、というタイプのようだ。
 今回、初めてソロの舞台を見た。タイトルの『米とりんご』はどのような意味があるのか、というのは正直よくわからなかったが、ダンスそのものは素晴らしかった。

 まず最初、吹きすさぶ風の音の中で、鰐川枝里がうずくまっていた。やがて童謡がアレンジされたものが流れ、それに合わせて激しく踊り出した。その踊りは、童謡の流れる中いつまでもいつまでも続き、それほどたくましくも見えないダンサーが、途中で倒れやしないかと心配になるほどだった。
 そういえば、子供というものは、いつまでもいつまでも全力で遊んでいるものだ。遊びをせんとや生まれけん、と歌にもある通り、見ているこちらがはらはらするまで遊び続ける。誰もがそうした子供時代を持ちながら、いつの間にか忘れて大人となり、駆けまわる子供にはらはらするようになってしまう。
 やがて音楽が変わり、ゆっくりした「大人」のダンスに変わった。それを見てややホッとしながら、こんなことを思った。
今は亡き戸川純の『夢見る約束』で踊ってくれたらいいのになあ……)


戸川純『夢見る約束』

   すると見ているうちに音楽が変わり、なんということか、二曲目に『夢見る約束』が流れ出したのだ。
 なんというか、ぶっとんだ。
 童謡にあわせて踊る姿を見ながら、唱歌っぽく歌う戸川純のことが思い出されたというだけのことだが、こうした出会いというものは見るものを特権的な時間へと誘ってくれる。

 考えてみれば、私が本を読んだり、絵画を見たり、音楽を聴いたり、映画を観たりするのは、こうした「特権的」時間に出会うためのように思う。
 そうした出会いはちょくちょくあるし、このブログでも何度か書いてきた。
 しかし、今回のようなやや超能力めいたことは珍しく、ダンスの公演を観ることへさらなるプラスαをもたらしてくれた。
 こういう時、書くべき感想はただ一つだ。

「ああ、面白かった!」

 またいつか、こんな出会いがありますように。

 なお、『夢見る約束』は元々細野晴臣が歌っていたことを付け加えておこう。私は最初音版『ビックリハウス』のカセットで聴いた。

4 件のコメント:

  1. 戸川順さんは今も元気(体調的には不健康だけど)に活動していますよー、岡山でワンマンライブ出来るくらいの体調は保持しています。まあ、見た目でいうと、、、、いやいや、よしましょう。過去は過ぎ去りもうないのですから。

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    1. 失礼しました。どこぞで耳にした死亡説をうっかり真に受けてしまっていたようです。修正しておきます。

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  2. ご返事ありがとうございます。
    「「特権的」時間に出会う」という表現は面白いですね。私目もその感ありありで、去年は細野晴臣氏と握手なんてしたりしてキャーキャーしてしまいました。年を重ねるのは面白いです。ではでは。

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