2016年1月18日月曜日

国家とは忘れ去ることなりとベネディクト・アンダーソンが言ったわけではないが

定本 想像の共同体―
ナショナリズムの起源と流行
 (社会科学の冒険 2-4)
 昨年(二〇一五年)末、ベネディクト・アンダーソンが死去した。
 愛しの「恋人」インドネシアの地において。
 しかしその「恋人」は、ベネディクト・アンダーソンを十八年もの間突き放していたことがある。
 原因は、「恋人」の「不行跡」についての批判である。

 一九六五年から六六年にかけて行われ、スハルトをインドネシアの元首に押し上げた「無血クーデター」について、ベネディクト・アンダーソンは一つの論文を書いた。「コーネル・ペーパー」と呼ばれたそれは、スハルト体制の逆鱗に触れた。彼自身は「コーネル・ペーパー」を仲間内だけで回覧させていたのだが、「恋人」への批判というものは、必ずどこぞのおせっかいが相手にこっそり耳打ちしてしまうものなのだ。
 ベネディクトはその論文の中で、クーデターは無血などではなく、正当化しえない虐殺の上に成り立っており、共産党ではなく軍将校こそに責任がある、とした。
アクト・オブ・キリング」や「ルック・オブ・サイレンス」で題材とされた虐殺について、彼は愛を持って書き記した。彼の愛は軍の行為について許すことなく、それを正当化しようとする言い訳をそのまま信じることはなかった。「恋人」はその論文の撤回を望んだが、ベネディクトはゆずらず、その結果追放された。

 ベネディクト・アンダーソンは、「恋人」と別れたあと数々の「女性」(その中には「日本」も入っている)と浮き名を流し、その経験は『想像の共同体』というナショナリズム研究に結実した。
 ナショナリズムというやつは、逃げ隠れすることなく堂々とその姿を現しているので、誰もがそれについてよくわかっているつもりになっている。
 しかしそれは、まったくの勘違いだとベネディクトは指摘する。
 彼によれば、ナショナリズムについて、大まかに三つのパラドックスが存在する。

1.「国民」nationは近代的な現象としてあるにもかかわらず、ナショナリズムにおいては、歴史の淵源に根ざすものであるかのように語られる。

2. 国民が国家へと帰属する意識nationalityは、世界中の国家において普遍的に存在するにもかかわらず、常にその国家において「独自の」「固有の」ものとして語られる。

3. ナショナリズムは政治的に大きな影響を持つにもかかわらず、その根拠は薄っぺらで支離滅裂である。

…………
したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している。(Hugh Seton-Watson“Nations & States”)
…………

 ナショナリズムは決して偉大な思想によって生み出されたものではない。このようなパラドックスが生じるその淵源は、「死と言語」にある。死も、言語も、個別性と普遍性の両方を兼ね備えている。
…………
死と言語は、資本主義の征服しえぬ二つの強力な敵だからである。(『想像の共同体』)
…………
 無名戦士の墓碑こそは、近代文化としてのナショナリズムを見事に表現している。個々人の死が無名となり、国家の戦争行為に加担するからだ。
 そして資本主義的な出版物の広がりは、近代的な個人に対し、同時的に一つの「枠」(または物語)の中でつながっている、という感覚をもたらした。
 それらのイメージは、想像の政治共同体 imagined political community として、「国民」nation となった、と定義しうる。

 だが、死と言語がその根源にあるとして、それらは本来融和しえないはずだ。死は言語によって語りえないものであるからだ。ならば、口を閉じてしまえばいい(ヴィトゲンシュタインのように?)し、ついでにそれを「忘れて」しまえばいい。
 エルネスト・ルナンは「国民」についてこのように言う。
…………
さて、国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをおたがいすっかり忘れてしまっているということにある。
…………
 ルナンはフランス「国民」に対して、サン・バルテルミーの虐殺について忘れ去ることを提案する。
 サン・バルテルミーの虐殺は、一五七二年にカトリックが数万のプロテスタント(ユグノー)を虐殺した事件であり、映画「王妃マルゴ」のハイライトでもある。この「成果」をローマ教皇はことのほかお喜びになり、フランス王室に感謝状を贈ったそうだ。
 ベネディクト・アンダーソンは、ルナンの提案について、忘れ去るために「思い起こす」ことで国民的系譜を構成するからくりとなっている、という。
 これは「安心できる兄弟殺し」として、歴史の中で共有される。似たような例として、アメリカの南北戦争が挙げられている。

 が、その忘却をさらに忘却するためには、何度も何度も思い出す必要があるのだ。
 それは『ルック・オブ・サイレンス』について書いた以下のエントリーにつながるとして、とりあえずこの項を終る。

本当に忘れるためにはまず思い出さなくてはならないが何を思い出せばいいのかわからないということもしくは『ルック・オブ・サイレンス』についてのつづき


 次回は『言葉と権力』について。


言葉と権力―インドネシアの政治文化探求

0 件のコメント:

コメントを投稿