2015年12月13日日曜日

『ラストエンペラー』は放課後まっすぐ家に帰るということ



 約二十年ぶりに『ラストエンペラー』を映画館で見る機会に恵まれた。やっぱりこういう大作はスクリーンで見たいものだ。
 ちゃんとノーカットで、日本初公開時にカットされていた南京大虐殺のシーンもしっかり流された。なかなかよろしい。
 こういうのは割と知らないうちになされているもので、有名なところでは『炎のランナー』のラストにおいて、日本公開版ではエリック・リデルが日本軍の収容所で死んだことが削除されている。
Chariots of Fire's Eric Liddell is Chinese 'hero'
【終戦の日に考える】日本で抹消された『炎のランナー』の最期
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140813-00038210/
 
『ラストエンペラー』については、見飽きたと言ってもいいくらいに見ているはずの映画だが、それでもやはり飽きることなく見てしまう。なぜこんなにもこの映画に惹かれてしまうのか。
 昔、浅田彰が「旧家のボンだった淀川長治が感動するのはわかるけど、なんで一般人がこの映画に感動できるの?」といかにもなコメントをしていた。自分が感動しなかったからって、そりゃねーだろ。あんたはゴダールだけ見てなさいよ。と返したくなるのはやまやまかわかわなんだが、でも言われてみりゃあそうだよなあ、と思えなくもない。しかも主人公であるはずの溥儀ってば、そんな英雄的な活躍するわけでもなく、ぶつくさもさくさやってるうちに、どんどん状況に流されてるだけだからね。よくあるヒロイックでファンタジックな「王様」ものとは全然違う。

 溥儀は叫ぶ。
「外へ出たい!」
 そしてやっと外に出られたと思ったら、そこは話に聞いていたのとはまるっきり違う世界で、散々利用されてエライ目に遭って、刑務所に十年繋がれた挙げ句、やっとこ普通の老人になることができた。
 改めてこうやって書くと、「普通の人」の話みたいだ。
 みたいというか、溥儀は「普通の人」なのだ。
 だから皇帝でもない一般人が感情移入できるのである。

 昔、学校というところは、とにかく生徒を外に出そうとしなかった。とにかく外の世界に触れさせないように必死だった。まあ、ほっときゃどんどん出てっちまうし、外の情報は知らん間に生徒どもに浸透しちまうんだから、出来る限り囲っとくのが正しいんだ、という認識だったのだろう。がしかし、それは濃密な地域共同体というやつがまだ機能していた頃の話で、高度経済成長が一段落したあたりから、どうも妙な具合になってきたのだ。
 とくに「言うことを良く聞く素直ないい子」にとっては。

 言うこと聞いてじっとしてればほめてはもらえるけど、どうも外の様子は親や先生が言ってるのとは違っているようだ。学校の成績がどんなに良くても、それにプラスαが必要だ、ということがなんとなくわかってくる。でもそのプラスαは学校の中にいる限り見えてこない。見に行ってみたいけど、学校の外には出してもらえない……

 実際の溥儀はどうだったか知らないが、映画の溥儀は優等生だ。弁髪を切ったりあれこれ反抗もしてみせるが、全て裏をかかれてしまう。
 散々あがいても外には出られず、半ば諦めた時にその願いが叶う。でもそれは自分の力ではなく、外界の状況の変化によってそうせざるをえなくなった、というだけのことだ。外に出れば出たで、自分の甘ちゃんさ加減はとっくに見透かされていて、いいようにもてあそばれてしまう。

「いい子」とか「優等生」とかも、これと似たようなものだ。
 学校の成績は良かったかもしれないが、世間に出ればそんなのは通用しない。ちゃんと答えのある「勉強」に比べれば、「世の中」なんてのはデタラメで嘘ばっかりに見える。そこでは元「優等生」だったことなど、なんの役にも立たない。そう、元「皇帝」なんか、一歩外に出ればただの人なのだ。
 だから元「素直ないい子の優等生」ほど、この映画に深く感情移入できるのだ。

 イデオロギーで目が曇ってる浅田氏をのぞいて、元「いい子」もしくは「いい子でいたかった人」がこの映画に「感動」するのはあたりまえのことだろう。
 自分の思う通りにならない人生、ならないなりに起伏があってそれなりに傷ついたりする人生が、過剰に拡大された歴史上の物語として、派手に装飾されて再現されているのだから。


 ちなみに、私は露天で溥儀が満州国皇帝に即位するシーンと、ラスト近くの紅衛兵の女の子のへんな歌と踊りが好きだったりする。

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