2015年6月18日木曜日

『絶歌』という本について思い出したこと

『絶歌』の出版について

絶歌 』という本について知ったとき、「なんで太田出版が見城徹みたいなことやってんだろ?」と思ったら、やっぱり仕掛け人は見城徹だったようで、なんつーか事実って小説ほど奇でもないな、と思ったりした。
少年Aの手記の仕掛人は幻冬舎・見城徹だった! 自社では出さず太田出版に押し付け!?
 念のために書いておくと、『絶歌』というのは例の酒鬼薔薇聖斗による手記である。
 この出版について、いろいろと騒がれているようだが、そうした件についてはふれない。
 読んだわけでもないしこれから読むつもりもないからだ。しかし、これに関連して少し思い出したことがあるので、メモしておこうと思う。

 事件が起きたのは一九九七年のことだ。
 この年の四月、消費税は五%に引き上げられ、浮き上がりかけた日本経済は鼻面を叩かれたかっこうとなり、以後ずーーっと沈んだままである。
 犯行の異常性もさることながら、日本人の不況の記憶に寄り添いつづけた事件ともいえる。
 さらにこの年、一人の男の死刑が執行された。
 連続ピストル射殺事件の永山則夫である。

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)
 永山則夫は犯行時未成年の一九歳であり、このとき少年法の適用についてかなりの議論があった。
 そして、九七年に逮捕された酒鬼薔薇も未成年(十四歳)であり、少年法の正否について激しい議論が交わされた。
 永山則夫の死刑執行については、少年法廃止の世論をかわすためではないか、と噂された。
 その当時、永山則夫は獄中で文章を習い、作家として執筆するようになっていた。



 一九八三年に『木橋』で新日本文学賞受賞。そののち、日本文藝家協会に入会を求めるも、「殺人犯の入会は認められない」と拒絶される。すると協会内に分裂が起き、永山拒絶に反発した中上健次、筒井康隆らが脱会した。
 死後、遺言により「永山こども基金」が創設された。印税はそこを通して世界の貧しい子供たちに渡されることになっている。貧しさにより犯罪に走る子供が一人でも減るように、という願いからである。

ある遺言のゆくえ―死刑囚・永山則夫がのこしたもの

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