2015年5月4日月曜日

カチカチ価値価値何の音?もしくは古本屋はなぜ嫌われる

 二年ほど前、本宅エントリーにこんな出来事を書き付けた。(お食事中の方は失礼)

…………
 昔々その昔、娘が小学二年生の頃だったと記憶しております。
 当時の娘はわがままできかん気で泣き虫で、いやまあ今でもそうなんですが、その年頃はしょっちゅう母親からカミナリを落とされていました。そして、私はそのなだめ役にまわっておりました。

 ある夕、バレエ教室からの帰りに娘が言いました。
「パパはダイヤモンドだけど、ママはうんこだね!」
 子供って、パスタパンより底が浅いなあ、と思いつつ応えました。
「じゃあ、パパよりママの方が大事ってことだね」
「え〜なんで〜、ママはうんこなんだよ」
「だってさ、人間はうんこが出なかったら死んじゃうよ。でも、ダイヤなんかなくても死なないじゃん」

…………

 よくある子供相手のやり取りだが、こうした「価値の逆転」は常に身近にある。

 水がなければ死んでしまうのに、なぜ水は宝石より安価なのか?という問題は、実はまだ二十字以内で書けるような解答は出ていないのだ。

 価値は一体どこから来るのか?
 生産するコストからくるのか?(生産費説)
 それをもたらすのにどれだけ苦労したかで決まるのか?(労働価値説)
 余分に働かされた分から出て来るのか?(剰余価値説)
 快楽と苦痛の効用utilityから来るのか?(効用理論)

 なんだか自転車の乗り方を改めて口で説明しているようで、どことなく要領を得ない。
 なんでこういうことをうだうだ書き付けているかというと、どの説を当てはめても「古本の価値」ってのが導きだせないからだ。
 だいたい古本屋と言う商売は、「価値」の齟齬にちょくちょく出くわす。
 お客様から買い取るときは「ずいぶん安いんですね」となじられ、それを売れば「古本なのにイイ値段だねえ」とつぶやかれる。
 言ってみれば、「お前の価値観は間違っている」と日常的に指摘されているようなものだ。
 おそらく「価値」には流れがあって、それに沿って活動する分には何の障害もないが、少しでも逆らおうとするとたちまち故障を訴える事態になるのだろう。
 
貨幣の哲学
……というようなことをジンメルの『貨幣の哲学』を読みながら考えた。
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿