2014年10月1日水曜日

『革命の子どもたち』の感想を書くにあたってベルトルッチをもう一度見る必要があったことについて


    先日『革命の子どもたち』というドキュメンタリー映画を見たのだが、この映画の感想をそのまま書くよりも、まずはベルトルッチの映画について書いた方が「急がば回れ」になるのではないかと思い、とりあえずDVDで『ラストタンゴ・イン・パリ』を見直した。最初にスクリーンで見てから二十年ぶりのことになる。(以下ネタバレ有り)

     初めてこの映画を見たのは、確か有楽町だったと思うが、とにかく見終わってから乾いた笑いが浮かぶばかりだったことを憶えている。
 評論家で元東大総長の蓮實重彦は、ベルトルッチに試写を見せてもらって、涙がぼろぼろ出て止まらなくなったという。「それ以来彼(ベルトルッチ)は、僕のことを『泣きじゃくる教授』と呼ぶんだ」と対談で語っていたが、普段から泣きべそをかいたような顔なんだから、別に泣かなくても「泣き虫教授」くらいのあだ名はついたんじゃないか、という下世話な憶測はさておいて、笑ってしまう私と泣いちっちな東大総長の差がどこら辺にあるのか、なんとなくわかってはいるけれどもはっきりとは書きたくない。これから書くことから自然に浮かび上がるようにできればベストなんだが。
    ベルトルッチの映画は、国内で観られたものはほとんど観ているはずで、淀川長治ではないので細部については忘れていることもあるけれど、だいたいのところは把握できていると自負している。
ラストエンペラー』以前の作品にそれはくっきりと顕れているのだが、ベルトルッチはとにかく「男」について描こうとしている。「男」というのをなぜカギカッコでくくったかというと、普段に意識される男というものと、ベルトルッチが描き出そうと苦闘する「男」は、まるっきり別物になっているからだ。
    通常の社会に流通する男というものは、システムにすべて組み込まれており、それを強調することはすなわちシステムを強調することとイコールになっていて、そのシステムからこぼれ落ちるものは総て女のレッテルを貼って語られてしまう。システムってのは無意識なもんなので、無意識の中に存在を見出すジャック・ラカンは「女は存在しない」なんて無茶なことを言い出すけれど、じゃあシステムの中にすっかり解体されて組み込まれてしまっている男は、女に対して本当の意味で対等に渡り合えるのかと考えたときに、システムに組み込まれていない、どこかで余っている、捨てられて放置されている、「男」というものを探してみる必要がある、とベルトルッチは「無意識に」考えたのではなかろうか。
    ベルトルッチの映画はエロスを語りつつも、背景に「政治」や「権力」が透き通しに見えていて、それはつまりシステムを意識することなしに男ではない「男」を見出すことが困難である、ということなわけで、「男」を探し求めることはすなわち「革命」を語ることになる、ということであったのだ。
    以前にちらっと書いたけど、システムなしに性欲は拡大できない。すなわち通常に流通する男はシステムなしにはムキムキマッチョなマスキュリン♪てな感じになれないので、システム外の「男」は日光の下に現れたとたん、もぐらのようにたちまちくたばってしまう。
 正体を明かしたとたん女に撃ち殺される『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の主人公はまさにそれで、バルコニーにみっともなくたおれるマーロン・ブランドが、後にこの映画について「拷問のようだった」と語ったのには、さもありなんとうなづかされる。

 結局、システムの外に出たとたんこんにゃくの薄切りみたくへたばる「男」には、革命を夢見つつもそれをかなえることなどできないのではないか。「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」とヒロインに語らせた太宰治は、システムの外に出ようとして心中してしまったし。

『革命の子どもたち』を観て、革命家の母を持つ娘の屈託のなさには、なるほど革命は女たちにとってこそ、ごく「自然」なことだと思い知らされる。この映画は、ただただそのことが「自然」なのだ、ということに尽きている。テレビのニュース画像で見たときはよくわからなかったが、重信房子の逮捕時の笑顔の明るさに、それはとりわけ象徴的に顕れていたのだった。

りんごの木の下であなたを産もうと決めた

 あと蛇足だけど、『革命の子どもたち』は重信メイのプロモーション・ビデオじゃないかと思うくらい、すっごい美人に撮られていてびっくりする。

0 件のコメント:

コメントを投稿